映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

成瀬巳喜男監督「放浪記」3017本目

1962年の作品。林芙美子を高峰秀子、その母を田中絹代。

高峰秀子は若い娘の役だけど38歳か。「張込み」で生活に疲れた主婦を演じた4年後。明るい役をやるときのはじけるような笑顔はなく、世間の垢にまみれたぱっとしない娘です。うまいよなぁ、こういう演じ分け。 「美人なのに」って言われる場面もあるのに、徹底して三枚目の不美人を演じてる感じ。林芙美子って、人がいいのに

「浮雲」でだいぶ前に林芙美子(の化体した主人公)を演じたのを見たけど、この映画の時代設定はそれより前だよな。「戦後」の戦争は第一次大戦。貧乏なふみ子に何かと親切な隣人、加藤大介は私は好きだけど、彼女はロマンチストな詩人だから、詩人の仲谷昇に惚れるよなぁ。この頃の仲谷昇ってなんかキレイです。彼と話してるときのふみ子は目が輝いている。宝田明もなんだか品がいい。文人を演じるときって、今でいう「しゅっとした」感じで演じるのでみんな知的に見えますね。(一方の高峰秀子は、チップがなかなかもらえなさそうなパッとしない女給そのもの…)

林芙美子もそうとう行き当たりばったりだけど、彼女が好きになる男がまた、揃いも揃って「クズ」しかいないのがな…。お隣の加藤大介(安岡さん)っていい人なのに、そういう男には惹かれないもんなんだな~。

美人って気の持ちようなんだろうか。あの高峰秀子がこうもなれるのか、と、同じ女性として何かを突き付けられたような気もする作品でした(努力してないからそうなんだ、とか)。 

 

「COLA WARS/コカ・コーラvsペプシ」3016本目(KINENOTE未掲載)

面白く見ました。1980年の「2本のコーラ、飲み比べてみて好きなのはどっち?」キャンペーン、強烈に覚えてます。一般の人がCMに登場するのって、日本では石坂浩二が街行く女性に声をかけて髪の水分量を測らせてもらうのがありましたね。あの頃は本当に素人が出てて(今はみんなエキストラだ)、見てる人たちはちょっとドキっとしたものでした。それが宣伝効果になった時代。

真っ最中には見えないことが、終わったあとで振り返ると見えてくる。「現象」として観察することができる。20年くらい前には「Windows vs Mac」みたいなPCの世界の競争をとりあげたドキュメンタリーをMBAコースとかで見たものだった。

しかし、250億ドルの市場を争うのにコカ・コーラの宣伝費が100億ドルってどういう計算だ。まったくもってバカなお金の使い方。炭酸飲料のマーケティングとか宣伝って、「ブルシットジョブ」の典型だなぁ。1缶の値段の大半が宣伝費だ。(残りは水と炭酸と、身体にあまりよくない成分か。たまにはいいけど)ただ、面白い。つい見てしまう。自分がまっただなかにいたら、とりあえずがんばってみるだろうな、他のみんなが頑張ってるから。

「ブルシットジョブ」って、定義としては「やらなくてもいいこと、やりたくない無意味でつまらない作業」だけど、私から見て「あそび」だと感じる仕事のことも含むんだなと、この作品を見て思いました。私の感覚で「あそび」と思うことって、生きていく上で必要じゃないこと、役に立つかもしれないけど余裕があるからやってること、とか。つまり「やらなくてもいいこと」。コークvsペプシキャンペーンなんて、人類にとっては本当にどうでもいいことだけど、飲み比べてどっちが勝ったとか負けたとか言うのってすごく盛り上がる。一時的にはとても楽しい。「あそび」だ。

私は年をとってきたから、そういうあそびに身が入らなくなってきたのかなぁ…。この先の人生は地味で利益率の低いお仕事をやっていこうと思ってますよ。。。(だいぶ話がずれたけど)

 

 

 

メル・スチュアート監督「夢のチョコレート工場」3015本目

ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演の「チャーリーとチョコレート工場」を思い出しながら、1971年のこの作品も見てみました。

内容はほぼ同一。この映画もそうとうブラック。原作にかなり忠実なんだろうな、なにしろ1971年版は原作者ロアルド・ダール本人が脚色もしてますから!

アメリカ映画らしいけど、なんかすごくイギリスっぽい映画です。 チャーリー以外の悪ガキたちの物おじしない悪っぷりが清々しい(笑)。カラフルだしインチキっぽいし、子どもにはみんな、こういう変な映画を見て育ってほしい。(反面教師で常識派に育つに違いない)

 

清水邦夫・田原総一朗監督「あらかじめ失われた恋人たちよ」3014本目

1971年に、当時の若者たちがイキがって撮った前衛映画。

私は若いとんがった人たちが何かにもがきながら生み出した作品には好きなものが多いけど、若い人はバカで無鉄砲だから愛しいわけで、こざかしい若者はめんどくさいのだ。この作品は、「あらかじめ失われた恋人たちよ」というカッコいいフレーズを思いついたのを大発明だと思って、わかってない世間に今の俺たちを見せつけてやるぜ!という不遜な思い込みを垂れ流してしまった、という感じがするなぁ。言葉キツイけど。

外国のニュー・シネマに憧れてその日本版を作ろうとして力みすぎたかな。主役の石橋蓮司は単にいつも変な反応をするやつだし、聾唖の女とか市場で売春に誘う主婦とか、普段暮らしてても出会わない人ばかり出てきて「普通」がなさすぎるので、共感への入口が見つけられない。見る人がどう見るかという自己分析を放棄してる。身体の底から切々と湧いてくるリアリティが感じられれば、「私とは違うけどこの人も切実だなぁ」って思えるかもしれないのに。

田原総一朗?ジャーナリストとしては歯に衣着せぬもの言いが痛快なこともあるけど、他の人の話に共感することができない人だなと思ったことがある。だからこんな作品ができちゃったのかな…。

タイトルだけ知っていて、なかなか見る機会がなかったのでワクワクしながら見たけど、往々にしてそういう映画って、見なくてもよかったと思ったりする。(私も自分勝手な観客だな…。)

 

シェーン・メドウズ 監督「ザ・ストーン・ローゼズ メイド・オブ・ストーン」3013本目

こりゃ参ったな。

バンドの解散後やアーティストの死後にファンになって、「彼らが活動してた時代に生まれたかった」って思ったことが何度もある。ストーン・ローゼズは、私が音楽をまだ聴いてた頃、ロッキン・オンをたまに読んでた最後の時代のアーティストであるだけじゃなくて、私がロンドンに滞在してたときにシングルカセットを買って聴いたのに見逃してた。というか良さがわからなかった、あんなにロッキン・オンで騒いでたのに。

いっそのこと、一生「私にはもうロックはわからなくなったんだな」で済んでればよかったのに、今初めて「こいつらすごい」って驚いてるのが悔しい。

1992年にロンドンのピカデリーサーカスのHMVかどこかで買った彼らのシングルカセット(まだその頃はそんなのを売ってた)は「アイ・アム・ザ・レザレクション」。たしかB面はインスト。おそろしくシンプルで、やたらビートが強いのにメロディはCMソングかJ-POPみたいにキャッチ―、愛想のないボーカルが「君が俺の気分を沈ませる」とか、ひどい歌詞を歌う。戸惑っただけだったのは、雑誌に「ビッグマウス」とか書かれてるのを先に読んでたからかな。あるいは当時私がロンドンで発見して喜んでたのは、ブラン・ニュー・ヘヴィーズとかビューティフル・サウスとか、メロディの美しいグループだったからか。時代的には、マンチェスター系の華々しい台頭の少し後、ロンドンのレコードショップの店頭ではもう彼らは目立たなかった。80年代にでたファーストアルバムからのシングルは50ペンスとかで売られてた。

私の周りの人は誰もロックなんて聞いてなかった。あの会社の人たちは、会長の名前に「Sir」がつくくらいで、中~上流階級だったんだろうな。派手なブランドものばっかり着てたし、会社には役員のための豪華食堂が、一般向けの社員食堂とは別にあった。(役員食堂に招待されたとき初めてザクロを食べて、種を出していいかどうかすごく困ったんだった)私が同僚に「ブリクストンにあるミーン・フィドラーってライブハウスにウィルコ・ジョンソン・バンドを見に行った」って言ったら「…私たちはそういうの聞かないのよ」って言われたな。。。。(自分からライブハウスの話とか、今ならしないだろうな)

映画を見ながら、唯一よく知ってる(持ってるから)「レザレクション」を演奏するまで、それでも「ふーん」って聞いてたのに、この曲になったとたん「あれ…?」英語できるみたいなことを普段言ってるくせに歌詞がさっぱり聞き取れない私は、映像で字幕を見ながら曲を聴けるのはありがたい。歌詞は大切だ、歌う気持ちを知って聴くのと知らないで聴くのでは共感度が違う。

どういうことかというと、彼らの曲は、メロディだけならそれこそシリアルのCMに使えるくらいキャッチ―なのもあるけど、詞が怒っている。それが当時のマンチェスターの若者たちの真実なんだな。ロンドンの大企業に会社の金で行ってた私が知り合うことのなかった、ローカルの人たち。

ボーカルのイアン・ブラウンってめちゃくちゃ大口たたく人としか知らなかったけど、ふわっと喋るしステージでの動きはくねくねしてて、なんか家で音楽に合わせて鼻歌歌いながら遊んでるみたいだ。つかみどころがない…。
やたら饒舌になっているのは、自分はバカだったなーと気づいて動揺してるからだ。自分がバカだったと知ることは、ひとつ階段を上る気持ちよさがある。いくつになっても。

今から(行けないけど)マンチェスターに行って、当時を知らないオバサンとして滞在してみたところで、このモブの中に入り込んでなにか共有できるわけじゃない。同時代性って大事だなぁ、モブ一人一人はまるで接点がないって知ってるけど。

今も名盤と名高い彼らのCDを入手して、しばらく聴きふけりながら、行ったこともないマンチェスターに思いをはせよう。

 

アンドリュー・ソルト監督「イマジン/ジョン・レノン」3012本目(KINENOTE未掲載)

これ見てなかった気がする。1988年に作られたドキュメンタリーで、ジョンの生い立ちからビートルズ、ソロになってから、シンシアとの出会いと別れとジュリアン、ヨーコとの出会いとショーン、そしてあの運命の日。亡くなったのは1980年だからこの映画は8年後。インタビューを受ける人たちはもう落ち着いているけど。

時間が経つにつれて、なぜか、ジョンはとても繊細な人だったっていうイメージが大きくなっていたけど、思ったことを誰に対してもそのまま言える強さは生涯持ち続けた人だった。背が高くて太い声で話す大きな人だ。

私はビートルズよりジョンのソロのほうをずっと聞いてた気がするな。「ロックンロール」はLPを持ってるのにCDも買った。私みたいな外国の小娘(当時)でも、これは私の音楽だ、ジョンと私は同じだ、と感じたくらいだったので、全世界にそういう人を何万人も生み出したんじゃないかな。この魔法をなんと分析すればいいのか。魔法なのか、呪いなのか…。

でもやっぱり、何年たっても、自分の少女時代を思い出すようで、ジョンの声が懐かしいです。

 

ルツィア・ストイェヴィッチ 監督「ラ・チャナ」3011本目

スペインの「ヒターノ」、ジプシーの出自をもつフラメンコダンサー、ラ・チャナのドキュメンタリー。ヒターノのつづりはGitano、そういえばジタンっていうフランスの煙草の箱にはフラメンコを踊ってる女性の絵が描いてある。ヨーロッパ地続きだもんな。どんな経緯でこの民族の名を冠した煙草がフランスでメジャーな煙草になったんだろう。

話が脇にずれました。ラ・チャナのダンスはとにかく情熱的。動きは大きくないのに、激しく踏みしめる足元、思いの詰まった表情、見ていると飲み込まれそうです。もしかしてこれはタップダンスなのかなと思うくらい、足以外の部分の動きは少ない。でもその足のリズムの速さと強さ。ダンスを習ったこともない、身体の中から出てくるものだけで踊るダンス。彼女はたぐいまれな、天衣無縫のダンサーだったけど、小さい民族集団の因習の強さは、アメリカの山岳地帯に住むヒルビリーの世界を描いた「ウィンターズ・ボーン」を思い出しました。少数で暮らす人たちの暮らしを守ることは大事だと思ってたけど、大勢の目に触れることでやっと「それっておかしくない?」と言ってもらえることって多い。それはもしかしたら、どんな小さな集団にも生じる、その集団の中の虐げられた人々が、大勢のグループに取り込まれることで、少数者として目立たなくなるってことなのかも、と思いました。

自分より偉大な妻をもった夫が妻を家で虐待する話って、欧米ではわりとよく聞くことらしい。若い頃は、そんな集団を抜け出して、自由の国を探しに行けばいいのに、って思ったものだけど、そうすると頼れる人も帰れる家もない完全に孤立した状態で、自分の能力だけで生きていかなければならない。これは、すごく消耗する。また誰かに認めてもらえるか誰にもわからない。ピーター・セラーズとハリウッドに行って、一時的なブームとして消費されて終わるのが本当にいいことなのか。小さい集団に埋没して、自由のない保護のもとで生きていくことと比べて、そのほうがいいんだろうか。(選ぶのは自分だから、どっちがいいという計算じゃなくて、やむにやまれず決断するんだと思うけど)

彼女は足のリズムで踊るから、タップダンサーとして尊敬する人もいそうだし、リズムを生み出すからパーカッショニストとも呼べそう。今もスピードが落ちず、若い男性たちがついていけないなんてカッコイイ。舞台でまったく笑顔を見せないのも、動物的で噓がない感じがする。一日に百万回くらい愛想笑いをしてる私にはまぶしく見えました。