映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

エイミー・バーグ 監督「ジャニス:リトル・ガール・ブルー」3695本目

せつない・・・。

芸術って、人の心が感じたものを、他の人にも感じられる形で表すことだ。ひりひりとたくさん感じられる人が、恥ずかしがったりカッコつけたりしないで、それを最大限に出すことができたら、他の人たちはそれに感動する。

彼女の歌を聴くようになったのは中学生くらいかな。自分でレコード(※CD未発売)を買うようになってしばらく経ち、いっぱしに思春期の悩みを抱えたりするようになって、きれいで美しい音楽だけじゃなくてパンクやジャズや電子音楽の面白さもわかりかけてきた頃。

すごいなぁと思った。夏がなんでそんなに悲痛なんだろう、とか。その頃は、人が感じるものがそう違うとは思っていなかったので、すごいのは表現だと思ってたんだろう。この映画で、言葉のふしぶしに彼女のやさしさというか、共感性の強さを見てしまった。「いい人だなぁ」といっても間違いじゃないけど、彼女は人を愛する人で、自分も同じように愛されたくて、いつも周囲の人たちの気持ちを気遣ってたとも思う。

そんな気持ちのまま亡くなってしまった彼女がいとしく思えて、切なくてたまらんです。

ドラッグでミュージシャンが次々に亡くなっていた1970年代、きっと今後は致死量のドラッグなんて簡単に手に入らなくなって、このような形で亡くなる人は激減すると思ってたけど、彼女のように天性の才能をもっていたエイミー・ワインハウスも若くして亡くなってしまった。薬が買えなくてもお酒ならどこででも買える。世界中の人が戦争から学んでこれからは少しずつでも平和になると思ってたけど、今もなくなるとは思えない。人間の本質って変わるものじゃなかった。だから今日も、明日も、自分の弱い部分が致死量のお酒を飲まないように、自分の中に隠れてる悪い人が誰かを攻撃しないように、わきまえてつつましく暮らす。そうやって暮らしてるから、ジャニス・ジョプリンの魂の叫びがまぶしく、かつどこか懐かしく胸にひびくのかな。

ジャニス(字幕版)

ジャニス(字幕版)

  • ジャニス・ジョプリン
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トッド・フィールド監督「TAR」3694本目

完全に出遅れた。やっと見ます。

これは実話ベースなのか?どうも違うみたい。女性指揮者で高名な人っているのかな。ステージで司会者と話すときは「我々女性指揮者」って言ってるけど、カプラン氏との会食のときは、「女性指揮者ではなく、我々と同性の若者のための奨学金だ」と言う箇所がある。字幕では「男性の」、セリフは「No, our sex」となってる。だからTARは本当は女性が女性を愛する”レズビアン”というより性同一性障害で、本質的な性別は男だけど、表では女性としてふるまってる、ってことか。複雑だ。

この映画を作った意図は、男性のレジェンド指揮者たちの過去の暴虐を、女性が演じることで別の視点で振り返ってみるってことなのかな。TARを女性と見ると「ケイト・ブランシェットのすごい演技」、男性と見ると「男性指揮者あるある」?

素人のロックバンドでもボーカル兼ギター兼作曲とかだと調子に乗って、ファンの女の子は全員自分のものだと思ったりすることはよくある。クラシック音楽の長い歴史や大勢のプロのオーケストラを率いる指揮者なら、重圧もすごいだろうし、開き直るためのパワーも必要だろう。自分は神だ。くらいの。

そのリディア・ターの優雅さと傲慢。絶対に友達になりたくないけど見とれてしまう。狂った天才って美しい。オリジナリティとか天衣無縫の子どものような発想のような、音楽で求められるものを持っているけど、社会性や常識がないまま活躍してる人も多いのかもしれない。傲慢というより幼児性なのかも。誰からもちゃんと叱ってもらえないままちやほやされた大きな子ども。自殺した女性の幻にずいぶん悩まされてるようだし、態度ほど本当は図太い人ではなさそうだ。

「マッサージ」を頼みたくて行った場所は女性たちが”金魚鉢”(飾り窓みたいな)の中で展示されてる場所だった。「お嬢さん、」と声をかけてきた男性が彼女をレズビアンだと見抜いて売春宿を案内するのは、なかなか筋としては難しい気がする。金魚鉢の女性たちはタイマッサージの施術師のかっこうをして、マッサージの道具を持ってたし。だからそこは本当にタイマッサージの店だと思うけど、階段状の座席に展示されてる女性たちの中から1人を選ぶのは、オーケストラの中からタイプの女の子を選んできた自分自身の行いだ!と、赤い髪の亡くなった女性の亡霊が語りかけてきた、かもね。

最後の「ゲーム音楽」のオーケストラ演奏、「ここからが本当の始まりである」っていう演出みたいでみょうに元気が出る。「ブルー・ジャスミン」でも、八方ふさがりの主人公は少なくとも前を向いて、今を彼女なりに一生懸命生きてた。ケイト・ブランシェットって、なんか諦めないキャラクターなんですよね。自業自得で何もかも失って、でも今あるもので必死に暮らしてるから暗くならない。

この映画は、男性指揮者の暴虐を糾弾しているとしたら、少し手ぬるい。「ラストナイト・イン・ソーホー」とか「プロミシング・ヤング・ウーマン」と似た狙いで、加害者を女性に変えた設定の作品・・・と考えるには、主役に魅力がありすぎる。だから結局、映画そのものの示すところより、ケイト・ブランシェットの魅力に目が行くのかもな。でも、ハリウッドがもうストレートなセクハラ糾弾の次の段階に行ってることがますます実感されて、とても興味深い作品だったっていう気がします。

ラース・フォン・トリアー/ヨルゲン・レス監督「ラース・フォン・トリアーの5つの挑戦」3693本目

出たラース・フォン・トリアー。「ハウス・ジャック・ビルト」だけは怖くて見てない。これは怖い映画ではなさそうだ。でも、「ヨルゲン・レスが1967年に制作した作品のリメイクを5本作る」と言われても、元作品はもちろんその監督も知らない。KINENOTEにこれより前の作品の記録もない監督(兼俳優)だ。全然とっかかりがないけど、どんな作品だか見てみる。

デンマークの監督たちから見て、キューバのこの男女はパーフェクトヒューマンなのか。この試作を見ながらお酒を飲んだりしている監督たち、ぜいたくな大人の遊びって感じだなぁ。こういう遊びは、高いジュエリーやブランドの服を着たり高級ホテルに泊まったりするより豪華に見える。自分たちで遊び方を考えてるからかな。

次の舞台は「世界で最も悲惨な場所」としてボンベイを選んでいる。もっと悲惨な場所は他にたくさんあると思うけどな。

それからブリュッセル。これもまた静かで美しい映像。ここまで、どれも地域らしさを感じさせるなかなか素晴らしい作品なんですよ。なのに、ここでラースはヨルゲンに「アニメを作れ」という。これは無理ゲーってやつだ。ラースはドSだ。しかし出来上がった作品は、意外にもすごくクールで美しい。結果、ラースでなくヨルゲンの挑戦はすべて成功に終わってしまった。

最後にヨルゲンは、「私を追い込んで本質をさらけ出させようというラースの挑戦は失敗した。その失敗によってラースは自分自身をさらけ出すことになったのだ」という。それも含めた挑戦だったのか?

…「大人の遊び」から「映画制作手法についての作品」のようになってきて、見ている私にも新鮮な映画でした。映画の作り方に興味のある人なら楽しめる作品だと思います。

で、おおもとの「The Perfect Human」、ググったら公式サイトでフル画像が見つかりました。見てみたら(英語字幕すらない)、思ったより単調で、この映画で断片的に取り上げられたものだけ見た方がスタイリッシュ感あるなぁという感じでした。

ハワード・ドイッチ 監督「プリティ・イン・ピンク 恋人たちの街角」3692本目

1986年の作品。

映画を見たのはそれよりだいぶ後だけど、当時リアルタイムで貸レコード屋(!)から借りたLPレコード(!!)をカセットテープ(!!!)にダビングしてヘビロテしたものです。OMD、Echo & The BunnymenやThe Smithsなんかは特に聴きまくったな。

モリー・リングウォルド演じるアンディのファッションは、当時アンアンを愛読して文化服装学院に進学するタイプの子という感じで、田舎の女子高生にはまぶしかったなぁ。マドンナになりたい「ワナビーズ」にもちょっと似てるけど、フィロソフィーとしてはその後の日本の「シノラー」や「ガングロ女子」にも通じる、ファッションによる自己主張。お金はなくてもセンスと頭で日々輝いてる女の子たちが、今もまぶしいです。

一方アンドリュー・マッカーシー演じるブレインは王子様感すごいですね。何不自由なく育って自己肯定感100%だけど、退屈な富裕層の日常に飽き飽きしてる。女子高生の私は彼に憧れるけど、彼はアンディみたいな目立つ素敵な女の子と仲良くなって、私は失恋・・・というイメージが勝手に浮かんできます。

スザンヌ・ヴェガやバニーメンの曲はどこでかかってたっけ・・・?思ったほど「音楽映画」ではなくて、いまこうやって映画を見直してみると、すごくオーソドックスなシンデレラ・ストーリーですね。一方、アンディの父がハリー・ディーン・スタントンだったり、彼女のバイト先のオーナーがゴーストバスターズのおかしな事務員アニー・ポッツだったりすることに今なら気づいたりします。「Try a Little Tenderness」を口パクするときのダッキーはリトル・リチャードに見えてちょっとカッコイイ。

最後は、無事愛する人とプロムに行く・・・っていう気持ちのいい終わり方。格差社会を乗り越える、というより、賢くてセンスのいいアンディが貧しい世界を抜け出して、富裕層だけど自由な心の持ち主の彼と新しい時代を切り開く・・・というイメージですかね。

マーヴィン・ルロイ 監督「心の旅路」3691本目

いい映画だった。

最近どこかでこの映画を勧めてるのを見て「見たいリスト」に入れておいたんだけど、先日一緒にご飯を食べた人(映画好きだということは初めて聞いた)から、彼女のベスト1だと聞いて、すぐに見てみました。

いい映画にもいろいろあるので、どういいのか説明したいけど、難しいな。戦争や時間の流れのせいで人間不信になってしまったら、そのときに見たい映画。人間ってやっぱりいいな、と思える。これを第二次大戦中の1942年に作れたアメリカは、大きな国だなと思う。

記憶を失くした状態で病院から逃げ出した軍人を助けるグリア・ガースンの凛とした美しさに惚れますね。陶器のような美しさは、すこしメリル・ストリープを思い出します。徹頭徹尾、弱みを見せない強さと愛情深さがまぶしい。男が黙って去った後の傷心は、昔ばなしとして少し触れるだけ。その後自分で勉強して、本来の姿に戻って成功者となった男の秘書になってしまう。踊り子のときの彼女も、敏腕秘書となった彼女も、違和感なく素敵です。

その男”ジョン・スミシー”(匿名の監督に使う「アラン・スミシー」とは関係なさそう)を演じたロナルド・コールマンはちょっと貫禄がありすぎる気もするな。ずっと奥歯にものが挟まったような演技には説得力があります。

この映画で特に素晴らしかった場面は・・・まず、男と結婚間近となったキティが、彼の迷いを見て取る瞬間の表情。愛する人の胸へ→自分との結婚に大きなためらいを感じている彼の気持ちを一瞬で悟ってしまう→悲しいけど身を引く、というわずか数分のあいだの気持ちの移り変わりが本当に見事でした。

あとはやっぱり感動のラストですよね。思い出しそう、でも思い出せない・・・を長年繰り返してきた彼が、細い糸をたぐりよせて、とうとうたどり着いた家。なぜこんなに惹かれるのかわからなかった秘書の”マーガレット(偽名)”が、その答だった・・・。「スミシー」「ポーラ」

映画のあいだ中ずっと、やきもき、はらはらしていた観客がここで100%救われます。カタルシスってこういうのを言うのね。現実にこんな大団円はないと思うけど、嘘っぽくていやだという気持ちが1ミリも起こらないのはなぜだろう。嘘を本当として、美しいものへと作りあげて届ける覚悟が、この頃の映画の作り手にはあったんじゃないか、なんて思ったりします。

わくわくしながらチケットを買って映画館へ行き、胸いっぱいになって帰る。この時代の観客がうらやましいなぁ。

あっ。この監督「悪い種子」と同じ監督だ!なるほど、嘘を本当のように見せる力量すごいわ・・。

すずきじゅんいち監督「442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」3690本目

タイトルを見ただけで緊張します。まず、誰がお金を出して誰が監督した映画なのか?

監督は日本人の名前。製作国は日本・アメリカとなってる。監督は長年アメリカで日本に関連した映画の仕事をしてた人なんだな。442部隊に加わった日系人たちの痛みを身近に想像できる場所にいた人だ。

日本からアメリカに移住してどれくらい時間が経てば、自分は日本人でなくアメリカ人だと思えるんだろう。時間を経て改めて日本を憧憬することもあるかもしれない。100%アメリカ人だと感じていたとしても、親戚は日本軍に従軍してるかもしれない。そうなると「麦の穂をゆらす風」だ。アメリカの人たちは合理的だから、彼らを日本の戦線には送らない。ヨーロッパに送られた彼らはすごい戦績をあげたらしい。たくさん敵を殺したとさわやかに笑う人もいる。元アメリカ兵たちは、日本にいる日本人には決して見せないそういう顔をして、過去を誇るんだろう。正しくアメリカ人、アメリカ兵になった人はその仲間として一緒に笑い合う。

彼らは一緒に戦う日系人の仲間を撃った憎むべき敵たち、ドイツ兵やイタリア兵たちをためらいなく撃ちまくった。敵として認識したのは「日本」というより「枢軸国」で、目の前にいたのはドイツやイタリアの兵士たちだった。彼らは収容所のユダヤ人たちを解放する手助けをした。自分の中に、ヒットラーとムッソリーニを討ってくれて、ユダヤ人を助けてくれてありがとう、と言いたいような気持が浮かんでくる。あの戦争における日本軍の戦い方には、現代の私たちはなかなか共感しづらいものがある。

「国」ってなんだろう。何を隔てるのが国境なんだろう。人種や民族じゃないし、必ずしも国籍でもない。「どの国からオリンピックに出場するか」とか、所属したチームで優勝を目指すとか、就職した会社で競争に勝つ、というようなものなのかな。

二世の彼らは親から日本的な美徳を徹底的に教え込まれてる。日本人たちは自分たちのことをアメリカ人として攻撃する。アメリカの白人たちは自分たちを差別する。選択肢は1つしかなくて、それは良いアメリカ市民となって戦うことだった。と想像する。

この映画の公開から13年経ってる。インタビューを受けた人たちはみんな80代後半だ。元気そうだけどもう亡くなった人もいるだろう、このときのようにはもう話せない人もいるだろう。

インタビューに応じた「二世」のなかで最も輝かしい勲章を受けたダニエル・イノウエは、もしや?と思ったら、ダニエル・イノウエ空港のあのダニエル・イノウエ本人だ。インタビュー当時も上院議員だったけど、2012年に亡くなっていることを考えると、これだけでもこの映画はものすごく貴重な記録だな。(彼が来日して当時の岸首相と会談したときのエピソードも強烈だったけど、ここには書きません)

私は戦争反対の立場を崩したことはないけど、自分が置かれた戦場で「戦うと決まったら賢く戦い、できるだけ血を流さずに、勝つ」と思い定めて戦う気持ちは、「普通」だと感じる。

すばらしい戦績をあげた彼らが、たまたま日本にいて日本軍として戦っていたらどうなっていたか。それはつまり、日本人を束ねるのは日本人よりアメリカ人のほうがうまくいくっていうことなの?

それでも私は軍人にならなければならないと言われたら喜んで刑務所にでも入るわ。

 

メアリー・マクガキアン監督「ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ」3689本目

タイトルを見ると、アポリネールとローランサンみたいにこの二人はそもそも恋人同士だったのかと思うけど、そういう話ではないです。見る順番としては、ドキュメンタリーの「アイリーン・グレイ 孤高のデザイナー」を先に見て良かった。ル・コルビュジェのファンの私も、こっちが先だとついていけなかったと思う。

まぁそれにしてもこの作品のコルビュジェはカッコ悪いですね。上野の西洋美術館のような端正でクールな美を生み出した巨匠が、この体たらく・・・。

この2本を続けて見て「歴史に埋もれてしまった不幸な天才アイリーン」って結論付けて終わる人も多いかもしれないけど、彼女には上昇志向は見受けられない。才能と性格、生き方は別だし、才能のありすぎる女性は昔も今も叩き潰されることが多いので、本人は「お願いだからほっといて」って気持ちだったんじゃないかなと思う。家は自分たちが住むためのものを完璧に作れればそれで充分だったのでは。

それでも嫉妬に燃えるのが上昇志向の強い男たちだ。これほどの才能のある女性に寄ってくる男はダメ男と嫉妬男くらいなのだ。(決めつけすぎてるな)

現代に生きる才能豊かな女性たちに、目立ちすぎず幸せになってほしいと改めて思うのです・・・。