映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ポール・オースター監督「ルル・オン・ザ・ブリッジ」3799本目

小説を2冊読んだところで、監督作品も見てみようと思いました。文筆家が映画監督をやる、というのはどういうところが難しいのか。

感想をいうと、ところどころ、ブツッ、ブツッ、と場面が変わって「え、その間どうしたの」と思うことがあったけど、全体的にロマンチックな大人のおとぎ話という感じでした。大人のというか中年男性が美少女(というほど若くないか)と短い恋に落ちるというファンタジー。

この映画は、ちょっと目を離すと道に迷う。どんどんストーリーが展開する。小説は読者が自分のペースで休んだり繰り返したりしながら読めるので、書く方が時間をコントロールしなければならない度合いが低いけど、映画は映像と同時に視聴者が運ばれていくので、時間コントロールはきわめて重要。ふつうの人がちゃんと見ていれば全部わかる、が前提となる。そこをあえて崩すときは、それなりの意図があるし、覚悟が必要だ。そういう意味で、この作品には、最初から映画監督を志してきた人が身に着けてきた心理戦の強さ、人心をコントロールする”ズルさ”が感じられない。まっ正直な分、視聴者が踏み込んで理解しようとしないと、置いていかれてしまう。

私が読んだ小説2冊は、この映画より暗い雰囲気が強かったけど、この映画にもダークな部分はある。映像のほうが、生き生きとした登場人物のリアルな生活が見られて、なんとなく生命力を感じやすいのかな。

中年男性がファンタジーを書くと、だいたい妖精のような美少女と恋をするんだけど、これが中年女性だったらどうなんだろう。多分主人公を不器用な少女にして、王子様が現れるんじゃないかな。今の自分は恥ずかしくて登場させられなくて、数十年前の自分をイメージしながら、母の視点で書く。とか。最近多い女性のリベンジムービーは、最後に相手も自分も破壊するものが多い。国内、国外にかぎらず、女性の自己肯定感ってグローバルに低めなのかなと感じたりします…全然これとは関係ないですけど。

ロジャー・アプルトン 監督「ジョン・レノン音楽で世界を変えた男の真実」3798本目

「リバイバル69 伝説のロックフェス」を見た後に「おススメ」で出て来たので早速見ました。これも見逃してた。

「ダブルファンタジー」の盛り上がりと、直後の事件のことは生々しく記憶してるけど、あまりにジョンはすでに巨大すぎて、そもそも伝説のように見えてた。生い立ちは2,3行のプロフィール程度しか知らなかったので、こうやって子どもの頃の友だちが生きていて喋ったり、親の世代からの歴史を辿ったりしてくれて、初めて、彼もひとりの少年であり、ひとりの青年であったことが本当に理解できる。どんなに特別な人だったとしても、私と同じように毎日ご飯を食べて、眠れなかったり薬を飲んだりどこか具合が悪かったりしてたのだ。

昔の仲間たちがタフなおっさんばかりで、聴き取り困難なリバプール訛りなのが、なんとなく救いというか嬉しい。親と疎遠だったほかは違いのない男の子がどうやって「ビートルズのジョン・レノン」になっていったのか、プロデューサーやプロモーターの大人たちの力や影響があったとはいえ、奇跡とか偶然とか神様の思し召しの範疇だよなぁ。

悪態ばかりついてたジョン少年がもし同級生だったら、友達になれたかどうかわからないけど、ぜんぶひっくるめて、黙って抱きしめたいような気持ちです。

 

 

ロン・チャップマン 監督「リバイバル69 伝説のロックフェス」3797本目

これ最高だなぁ。ロック原初のエネルギーの発露!みたいで。ロックの聖地というには辺境感のあるトロントの若者たちの思いつきだったのに、チケットを売るために必死にかけずり回った結果、回り回ってレノン&ヨーコに行き当たり、奇跡がなぜか降臨した、という。

結果的にこれがジョンのロックン・ロール回帰のきっかけになったんですよね?アルバム「ロックン・ロール」が1975年だから。ジョンは当時29歳(まだそんなに若い!)だけど、ビートルズとしてはすでに「イエロー・サブマリン」発売後で終焉に向かっていた時期。そんな時期にチャック・ベリー、リトル・リチャード、ジェリー・リー・ルイス、ボ・ディドレー、ジーン・ヴィンセントなんていう少年時代のヒーローが大挙してやるライブなんて、観客として参加したかったくらいじゃないだろうか。

ジーン・ヴィンセントのバックをアリス・クーパーが務めたっていうジョーク(違う、事実)も最高。こういう、事故か奇跡か、みたいなできごとって、と思う。これからも起こりうるんだろうか。今なら、メインストリームになりかけてるような若い子に人気のあるジャンルでなら、ありうるかもしれない。とはいえジャンルを問わず、神様かなにかの気まぐれで起こるとしか思えない…。

これ、フィクション映画化してもそうとう面白いんじゃないかな。出演者の映像はもう撮れないけどね…。

 

 

ジョン・カーニー監督「ONCE ダブリンの街角で」3796本目

この映画を初めて見たのは2014年。たぶんまだダブリンに行ったことはなかった。その後私が見たダブリンは日が短くて、とにかく小さな町で、この映画で見える範囲よりちょっと広いくらい、という印象だった。なんか、「吉祥寺」ってかんじ。

吉祥寺のはずれの街道沿いの練習スタジオに、通ったことがあったな。ギターケース背負って先輩のバイクの後ろにまたがって、五日市街道を走って行った。下手なコピーバンドだったけどオリジナルもやった気がする。コピーバンドっていうと薄っぺらいけど、大好きな曲を仲間で鳴らすのはすごい体験だった。というようなこととか、その頃の自分の気持ち、誰かに夢中で授業中も夢の中もずっと考えていたり、小さなことでひどく傷ついて、そのままふらっとどこから落っこちそうになったりしたことを思い出して、今とは別の人間みたいだったと思う。人の心って摩耗して丸くなったらもう、つるつるの無感動な表面だけになってしまうのかな。この映画を見てると、ちょいちょい、前世のように遠い、多感な自分が、0.01秒くらいフラッシュバックして、どっと涙が出たりする。

このむなしいような切ないような気持ちは、もう自分は恋をしないとわかってしまったからか。もう誰も自分に恋をしないとわかってしまったからか。痛くて苦しいだけみたいに思えた頃の時間は、そう考えると、すごく得難い時間だったんだな、と思う。たとえば、自分が失恋自殺をする可能性は、30年前には5%くらいあったかもしれないけど、今はもう0%だ。

この映画の中の歌って、そういう痛む心がストレートにメロディと歌詞になってるのだ。君ってひどいよ、とか、こんなに頑張ってるのに、とか。でも愛してるよ、という気持ちがあるから、メロディはとても優しくて美しい。

自分でも、いま、何を思い出してるのかはっきりわからない。なんか死にかけてる人の走馬灯みたいだけど、いつ誰を思っていたときの気持ちなのか、どの仲間と夜中の道路を走ったときなのか、だんだんそういうものも丸まっていっしょくたになって思い出せなくなっていくのかな。

すでにもう永遠に失われた記憶だかなんだかを懐かしむために、多分また何度もこの映画を見るんだと思います。私は。

 

 

ジャン・ジャック・アノー監督「愛人/ラ・マン」3795本目

1992年の作品。公開後わりとすぐに見た記憶があるけど、もっと明るい部屋でずっとからみあってたような印象だった。フランス人少女の家庭のごちゃごちゃのことも、忘れてた。

久しぶりに見直してみると、少女を演じたジェーン・マーチはアジア系の血も引いていて、東南アジアに突然降ってきたようなヨーロッパの少女ってほど目立たない。レオン・カーフェイは大柄のイケメンで、少女が語る「たよりない身体」というのが似合わない。つまり、並べてみてもそれほど違和感のない、お似合いのカップルにさえ見える。

それでも少女の家庭の不運や、男の富裕さは際立っていて、社会的なドラマのようにも感じる。これたぶん、今日本の少女が外国人とこんな関係に陥ったとしたら、それを彼女は恋と呼んでロマンチックなものとして認識するんじゃないだろうか。そのほうが今の日本の規範のなかで受け入れやすいから。

それにしても、舞台はベトナムだけど、この映画の中にはベトナム人は使用人と通行人しかいない。フランス人の少女と中国人の富豪の話だ。ベトナムから見たら「勝手に恋でも何でもすれば?」ってところだろうなぁ。外国にいるとエキゾチシズムに酔ったようになって、普段やらないことをやってしまう、というのは、どの国の人にもあることだろうけど。

これってそういえば林芙美子「放浪記」と時代が近い。彼女も現地に駐在している日本人と色恋沙汰を繰り広げてたのだ。

今の私は数十年前に見たときとちがって、ベトナム人をたくさん知っていて、今のこの国の生活はこれとはまったく違うし、背景に埋もれるんじゃなくて自分たちを主人公として生き生きと暮らしてると思ってるから、なんだか納得いかないような気持ちになってしまう。でもこれこそ、外国人でしかない私が、たまたま現在置かれてる環境に左右されてるだけなのかもな…。

愛人/ラマン(字幕版)

愛人/ラマン(字幕版)

  • ジェーン・マーチ
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グザヴィエ・ドラン監督「ロリエ・ゴドローと、あの夜のこと」3794本目<KINENOTE未掲載>

他の人の映画感想を見ていたら、グザヴィエ・ドランってそういえば最近新作撮ってないな…と思い、Wikipediaとか見てたらこれを発見しました。カナダのテレビのために作った、約1時間×5本のシリーズもの。

ラルーシュ家というひとつの家庭の1991年(子どもたちはティーンエイジャー)と2019年(みんなもう40代)を描いていて、場面が次々に入れ替わるのが複雑。(イントレランス/クラウドアトラス的)1991年の長男と長女は、2019年とは違う若い俳優たちが演じて、ほかはだいたい30年の時間差にもかかわらず同じ俳優が演じているので、最初は混乱しました。英語だったら多少はストーリーを追う役に立つけど、フランス語なので字幕を追うしかない。そうすると画面の大事なところを見逃すこともある。ということで、2回通してみました。

2回目には、家に戻ってきたミレーユがさまざまな場面で号泣していた意味がわかる。最後の最後に明かされる「あの夜」のこと。それによって不幸というより破滅が訪れる人々の、いま現在の幸せを見て涙に暮れていたんだなぁって。

インタビュー映像で監督は、凝り性すぎて映画を撮ると持ち出しが多くて生活に困る、映画はもうやめてずっとテレビやろうかな、とか言ってました。まぁそれでもいいけど。(ほかの映画好きの人たちと「いいね」しあったりできないのは寂しい)

でもこの番組はちょっとわかりづらかったなぁ。

それとも、私が映画を見るエネルギーのほうが弱ってきたのかな。最近そんなことも感じる。

ウィル・メリック 監督「search #サーチ2」3793本目

あー今回も危なっかしいティーンエイジャーの女の子だなぁ~と思ってたら、失踪したのは母のほうか!そしてすごいハッキングスキルでガリガリ、パスワードを暴いたり現地探偵を雇ったり、観光地のカメラの履歴を見たり、謎の真相に迫っていくのがこの子なのでした。やるなぁ!

っていうハッキングのあれこれをいいテンポで見せてくれるのが、スリリングで盛り上がります。それにしても、どいつもこいつもパスワードが家族といっても簡単にばれすぎ(笑)本当のサイバー捜査ではもうちょっとプログラム駆使して警察のほうが娘より先行するくらいじゃないと困る。

途中までは米墨の一般市民がオーディエンスにどんどん加わったりして楽しいけど、犯人がわかったあたりから普通の誘拐ものになってしまって、そっから先はもういいかなという気もしました。(それでもSiriの活用とか笑ったけど)

サーチ3を作るとしたら、たぶんChatGPTとか駆使し始めるんだろうな。どんどん作って見せてほしいです。

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