映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

新藤兼人監督「落葉樹」21

1986年公開作品。新藤兼人版「銀の匙」。(←決めつけすぎ)
銀の匙」、感想にリンク貼ろうと思ったら書いてなかった…。著者は中勘助、子ども時代に乳母と過ごした満ち足りた時間を丁寧に丁寧に描写し、「読書好きな人のベストテン」内に必ず入る、玄人受けの甚だしい作品。教科書としてこれ1冊を1年かけて読む学校があるくらいの個性的な小品です。
新藤監督がマイケル・ムーアから影響を受けたということはないだろうけど、「銀の匙」は読んでるのではないでしょうか?

この映画の場合、父親が連帯保証人になったために実家は没落していくので、幸せなだけの少年時代ではないとも言えますが、でも甘くやわらかいお母さんの思い出を中心にした、幸せな映画だと思います。

ところで新藤監督は映画タイトルの付け方が地味な気がします…たとえば「銀の匙」に比べて。およそeye-catchingということを目指さないし、インパクトも弱いし映画そのものを引き立てるほどの強い印象もありません。故人の映画監督でも、黒澤明にしても小津安二郎にしても溝口健二にしても、タイトル買いしてしまいそうなものが多いのですが。「落葉樹というのは葉を落として次の芽を出す」と「新藤兼人の十本」の中のインタビューで述べていますが、初老の主人公が愛人らしき女性と過ごす高原の別荘に白樺のような樹木が見えたり、何度か画面に出てくる柿の実が、そういえばあれも落葉樹だったなとあとから思うくらいで、ビジュアルでの印象はありませんし。説明しないとわからないタイトルってちょっと弱いな…という気がします。

本編に戻ります。
監督はこの映画を1986年にあえて白黒で撮ります。新しい手法に走らず、知り尽くした白黒フィルムで撮る。でもなんとなく、昔の映画のようなキツくて鋭い白黒のコントラストがありません。フィルムの品質が良くなりすぎて、階調が増えたおかげで、かえって平べったい画質になったのかな?

それにしても乙羽信子。監督が一番愛した妻と母の両方を演じたのですね。監督にとって母であり妻であり仕事上の相棒であり…「女」であり「対」であり。新藤監督自身だった、と言ってもいいのかもしれません。

今こわいことに気づいてしまいました。
この映画が昔の映画とは違う印象である理由がもう一つ。役者さんのお芝居がお芝居に見えて、リアルな人間に見えないのです。その背景にはTVのバラエティとかでオーバーリアクションをするのが当然になっていて、役者さんも演じすぎるようになっていることがあって、そういうのばかり見て育った私たちも「何かやらなきゃいけない」と思って暮らしている気がします。前に若い女性タレントがインタビューをされて「別に…」と無表情に答えただけでひどいバッシングを受けて国外に逃げ出してしまったことがありましたしね…。本当にマスコミってなにを目指してるんでしょう…おっと本題からずれました。つまり普通の人も、もうリアルじゃなくなっているのです。リアルじゃない人が増えているのです。現実はもうリアルじゃない。では実在する私たちが痛いくらいリアルだと感じられることは、どこにあるんでしょう?

実際には仕事が吐くほど忙しかったり、飲み会が心底楽しかったり、猫を抱くと柔らかくて温かかったり、十分現実は五感を刺激し続けているんだけど…ただ、「感じること」をおろそかにしがちだし、平板で予想のつくリアクションを顔に貼り付けて防御してる時間が長いということなのかな。

…映画自体は、わりあいそういう意味で、銀塩でギラギラしたような昔の白黒作品とくらべて平板な感じもありますが、監督といっしょに浅い夢の中に入ったようになって、思考の広がりをもたらしてくれた作品でありました。以上。