映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

スタンリー・キューブリック監督「バリー・リンドン」645本目

キューブリックの、185分の長尺作品。
ヨーロッパ、特に英国の香りやクセがぷんぷんと漂う、歴史もの、かつ、一人の男の栄光と凋落を描いた大河ドラマビルドゥングスロマンです。あんまり成長しないけど。

テートブリテンの、幅が4、5メートルもあって奥行も深〜い18世紀絵画みたいな、みょうに暗くて(ろうそくの灯りだけの場面を撮るのに技術をそうとう工夫したらしい)素晴らしく美しい世界。で、なんとなくまじめな気持ちになって見てると、バリー・リンドンになる前のアイルランドの田舎小僧「レッドモンド・バリー」が小賢しい手練手管を使って、怠けたりズルしたり逃げ出したり、こいつ本当イカサマだなぁ、というのが第一部。これが痛快で、ちょっとハラハラしながら楽しくてたまりません。

インターミッションが入って、(このインターミッションってのが、なんか好きなんですよね。ゆっくり休んでたっぷり楽しむぞ!って思う)しかし第二部は「上り詰めたらあとは落ちるだけ」。詐欺でお金も女も貴族の地位も手に入れたけど、教養も志も常識もない男なので、湯水のように使うことしかできません。バチが当たったとしか思えない、愛する次男(自分の息子)の死。妻の自殺未遂ののち、彼女の連れ子に決闘を申し込まれます。ここで彼は、人生で一度だけの男気を見せます。戦闘に強くて運をつかむ力でのし上がってきた男なので、こういう一か八かという場面にめっぽう強い彼が、ここで義理の息子を撃てずに自分の番を捨て玉にしてしまう。その後逆に打ち返されて左脚を失った後は、「どっか行ってしまってあとのことはわからない」で終わり。

落ちていく第二部は、「うわ〜っ」というような新しい驚きや楽しみがないのは映画を見てる者としては残念だけど、かりそめの栄華を極めたあとには必ずくる凋落なのでしかたないか。

ライアン・オニールの頑強な体つきと人なつこい風貌が、ゲームのヒーローみたいに愛嬌があっていいです。しかしそんな風貌の裏にはズルさや強欲がある、と。この映画を作った頃は、悪いヤツが高笑いしながら死ぬ、みたいな映画を作ることは、世の中的に許されなかったのかな。とか思いました。