映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

田坂具隆 監督「五番町夕霧楼」714本目

1963年作品。
京都にあった遊郭の、若い遊女と幼なじみの僧との、若さゆえの悲恋の物語。
吃音の学生僧の話といえば、1958年の市川雷蔵主演「炎上」がありました。一瞬、原作が同じだっけ?と思ってしまったけど、こっちは水上勉、あっちは三島由紀夫。モチーフとした事件は同じだけど、解釈が違う。水上勉は、人間をじっと見つめていたい人だ。人の感情を大切なものと考えている人だ。と思う。犯人だけを描いても、つかみどころが少ないから、夕霧楼の夕子が必要だったんじゃないかな。

佐久間良子、このとき24歳。役柄は19歳だけど、地方から出て来たばかりの純情な娘という役にぴったりはまっています。普通の人でないような美しさ、不器用な青年を一途に思う深さも、この人ならそうかもと思わせます。

しかし、完全に学生層の印象が薄れていて、彼がどういう人であろうとそれほど関係ないと言っても過言ではないかも、と思うほどです。それから、キネマ旬報での順位の高さというのは、思ったほど「時代を超えて訴えかける」ことだけではなくて、この映画にもかなり、その時代に映画館で見るから泣ける仕組みがあったのだろうとも感じます。最近「そこのみにて光り輝く」エンドロール中に、映画館中にすすり泣きが同時多発的に起こったのに遭遇したのですが、よく考えてみると、あのような終わり方が受け入れられ、感動を引き起こすのは、”それまでに見て来た映画やテレビと共通の部分があって、その上にちょっと違う部分があったから”じゃないかと気がつきました。みんなが同じように感動するためには、それまでに同じ映画を見て来たことがベースになる。経験とかコンテクストとかを重視する日本の映画では、特にそういう蓄積が重要になってくるように思います。

そういう意味で、時代をさかのぼって昔の映画を見ることは、ひょこっとヨソ者が映画館に紛れ込むようなこと。
いい映画だったけど、エンドロールですすり泣くほどの琴線に触れる感じは味わえなかった、その理由をつい考え込んでしまったのでした。