映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

セルゲイ・パヴィッチ監督「ホドロフスキーのDUNE」750本目

わたしはスティングが出てるDUNEも、それなりに楽しく見た記憶があるんだけど、当時もあの映画は激しくバカにされてた気がします。映画のなかで何度も出てくる「DUNEバイブル」は、そのまま豪華革張り本として発売して、それだけを学ぶ1年くらいのコースをデジハリあたりで作ってもいいんじゃないだろうか。そうやって学校一つで一作品を作り上げる、というのはどうでしょう?12時間といえば30分アニメなら24回、半年クールでちょうどいい。超リアルなCGで、ミックジャガー本人とかオーソンウェルズやダリの遺族からも許諾取るの。制作費実費はクリエイター自分持ち、許諾料はスポンサーを募る。あるいはクラウドファンディングで世界の映画マニアから出資を受ける。全員の名前をミクロのフォントでエンドロールで流す。俺がDUNEを作った!!みたいな。

見たかったなと思うと同時に、実現しなかったから技術的な制限を受けることもなかったし、時間が足りなくなったりお金が足りなくなったりもせず、客が入らなかったこともなかった。賞にノミネートされることも、受賞を逃すこともなかった。とも思う。

12時間の映画なんて、見たいけど現実に見に行く体力はないので、どうして「2時間×6部作」というプレゼンをしなかったんだろう、とも思う。スターウォーズは、とても上手に小出しにしたのでレジェンドになれた。「ホドロフスキーのDUNE」は、完璧な「映画の企画」があって、作らなかったからレジェンドになったんだ。作り始めてたら、イントレランスシェンムーや、累々と連なる死体の山にひとつ加わってたのだ。

しかし主役が監督の息子で、ちょっと顔を見ただけでその人とわかるキャラ強すぎる有名人ばかりが出てくる映画なんて、セットに凝る必要があるんだろうか。逆にいえば、ダリとミックジャガーとオーソンウェルズに声をかけようと思った時点で、この映画は終わってたんじゃないのか。自分で俳優に演技指導をして、役を作り上げて行く気はなかったんだろうか。ハリウッドの無名俳優をオーディションして、ミックジャガー級の輝きを与えるのが監督って役割なんじゃないのか?ホドロフスキーは、自分が最高に見たい映画をイメージすることはできたけど、配給元が決まっても、おそらくこの映画を作ることはできなかったんじゃないだろうか。映画を構成する各ピースを探してくることはできても、それを有機的に結びつけて発酵させて熟成させてマジックを起こすことはできなかったんじゃないか?画家は一人でもできるけど、大作映画の監督は、プロデューサーが別にいたとしても、会社社長みたいなもんだと思うんだ。

これは失敗というより、大敗を喫す機会を逃した記録。美しい夢をみるのは、いつでもどんなときでも、誰にでも許されてる贅沢だ。