映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

斎藤武市 監督「愛と死をみつめて」2737本目

1964年の作品。一世を風靡したらしく、その後に生まれた私でも「甘えてばかりでごめんね」という歌を覚えてます。(あれは実は映画より前に出た、関係ない歌らしい)小さい頃、姉とマンガのようなものを描いて遊んでたときに、姉が”骨肉腫で顔の半分を取ることになった美少女”のおはなしを描いたんだけど、そんな複雑なものを幼児が思いつくはずもありません。思い返してみると、そういう筋のマンガが「りぼん」か「なかよし」に載ってたのが出どころだったのですが、その大元にあったのが、多分この映画の原作ですね。書籍化のあとラジオドラマ化され、歌ができて、映画かもされたというメディアミックスの走り…つまりそれくらい日本じゅうに影響を与えた作品。

吉永小百合=ミコは神様が作ってぽんと地上に置いたような、清純そのものの美少女。賢く明るく気が強く、誰が見ても将来が楽しみな女性です。対する浜田光男=マコは朗らかで爽やかな青年。主人公が病気になる映画の構成は、発病の恐れがなく屈託なく暮らしているときの描写から始まりまることが多いと思うけど、この映画はミコがマコに別れの手紙を書いている時点から、入院中のミコとマコが出会ったところまでさかのぼります。つまり彼女は最初から病気。治療、退院、再発、入院と繰り返して彼女は顔の半分を削除する大手術を受けます。戦争で顔の大部分を失った人の写真を見たことがあるけど、顔のあるべき部分が「ない」というのは相当のショックです。こんな美少女が…と思うと胸が痛くなります。

吉永小百合のほんのり関西弁っぽい話し方は、コテコテの関西弁ではないけど、神戸が舞台の朝ドラ「べっぴんさん」の出演者の話し方みたいで、意外とリアルなのかもしれません。

恋愛物語としては、美しいんだけど、自分の病状を知っている彼女にとって、自分の生を悩みつつ、ひたすら回復を信じて元気出せと言い募る彼をなだめなければならないのって、まるで母ですね。病人でいることは大変だ…。人は叶いそうで叶わない恋愛ほど真剣になってしまうのかな。 恋愛に限らないのかもしれない。もしかしたら、その裏返しが、勝たないギャンブルに挑み続けるような状況なのかなぁ。

いい子すぎて人が嫌がることもいとわずにやっていると、品性が貧困な人から「あんたのせいで悪く言われる。ばけもの!ドアホ!」と詰め寄られる。こういうのって体力カウント奪われる。

最後は脳に転移してたのかな。マコはまだ若い学生で、立ち会えるような状況じゃなかったのね。

マコさんはその後カメラマンや編集者を歴任して、出版社の副社長を経てコンサルタント業を今も継続中とのこと。その後何冊か本を出されているようで、感想に「乗り越えてやってこられた」とあったので、自堕落になったりしないで(なってもおかしくない状況だったと思うけど)まっすぐに生きてこられたんだなぁと思いました。