映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

マルコ・クロイツパイントナー 監督「コリーニ事件」2787本目

<ネタバレあり>

とても丁寧に作られた質の高い映画だし、作品として面白い上、戦争犯罪と法治国家の落とし穴に鋭く切り込む感動的な映画でした。この小説を書いた弁護士でもある作家の問題意識と、これほどしっかりした映画を作り上げたスタッフに敬意を表したいと思います。

フィクションとして成立させるための”小細工”、トルコ系の若手弁護士カスパー・ライネンが被害者である実業家ハンス・マイヤーの援助で弁護士になり、孫娘とつきあっているという設定とか、弁護士自身の父親との確執とかは、いちゃもんのつけようはあるけど私は気になりませんでした。

それより、晩年のハンス・マイヤーの温厚さが気になります。老実業家が、孫のトルコ人差別をたしなめるときの愛情あふれる視線は作り物に見えなかったし、最後に明かされた、ファブリツィオ・コリーニに殺害される場面で自分から身を乗り出して弾丸を受けた態度は、戦後あやまちに気づいて善行を積んできてもそそげなかった自分の悪行がやっと裁かれるという安堵を感じさせました。その彼を撃ち抜き、踏みしだいたコリーニはもう思い残すことはなく、墓場まで持っていこうと思っていた思いまで法廷ですべて明らかにされた時点で、「死者は裁けない」と弁護士にヒントを与えて独居房で死を選ぶことを決めていたんだと思います。彼もまた、ある意味清々しい気持ちで逝ったのでしょう。ライネン弁護士は翌日それを聞かされて、あの一言の意味を思い、「自分がすべてを法廷で暴かなければコリーニは生きて刑罰を受けられたのか、でもその方が良かったんだろうか」という戸惑いの表情を見せます。

ナチス・ドイツの個別の軍人について「悪の凡庸さ」に注目されることが多い昨今ですが、ハンス・マイヤーもまた、戦後は偽善者になったとか戦時中は命令に従うしかなかったとかいう必要もない、悪にも善にも転びうる存在だったんだと思います。…とこの事件を総括しようがしまいが、戦犯を審議しないという1968年の法律はどこかのタイミングで見直されるべきですね。

もう一つ気になったのは、これが、ドイツにとって”悪の枢軸国”同盟イタリアの一般市民に対する虐殺だという事実。自国内でも暴虐を尽くしたナチスだけど、対象になったのは別の国からの移民や同性愛者であって一般市民は反抗者とみなされない限り守られていたはず。戦時下の現場では理屈で理解しづらい判断が行われていたってことなんでしょうかね。モンテカティーニって有名な温泉町で昔行ったことがあるのですが、タクシーに乗っても運転手が英語をしゃべれないという、のどかな田舎町でした。日独伊同盟の独から伊への蹂躙。日本は遠くにいたのでナチスから直接痛い目にはあわなかったけど、ナチスと組んでいたことを反省するでもなく被害者意識を強く持ってるのってどうしてだろう?私が大学に行った頃でもまだ、医学部に行く人はドイツ語を学ぶと言われてたくらい強い影響を受けてたのに。世界史苦手だから、まだまだ知らないことがたくさんあるんだろうけど…。

 

こういう映画が作られたことで、あまたのハンス・マイヤーもファブリツィオ・コリーニも救われる部分があると思う。日本で同様に戦争犯罪を暴く映画が、このように冷静に作られる日は、多分私が生きてるうちは来ないと思う。全部をつまびらかにして机の上に広げてみんなで共有しない限り、先には進めないけど…。 

コリーニ事件(字幕版)

コリーニ事件(字幕版)

  • 発売日: 2020/11/09
  • メディア: Prime Video