映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

トレイヴォン・フリー&マーティン・デズモンド・ロー監督「隔たる世界の二人」2946本目(KINENOTE未掲載)

<ネタバレというか、あらすじ全部書いてます>

32分間の短編。

昨夜ナンパした女性の家で目を覚ました黒人男性。建物を出たところで、人にぶつかって白人警官に呼び止められ、いちゃもんを付けられて取り押さえられ、押さえどころがまずくて窒息してしまう。通行人の女性がその一部始終を目撃し、スマホで動画を撮ってることにも気づかないくらい、警官たちは彼を取り押さえることだけに夢中になってる。

2回目。誰にもぶつからず、煙草を吸っていただけなのに、また取り押さえられて今度は撃たれてしまう。

3回目。一夜を共にした彼女への態度は、どんどん紳士的になっていって、今度は二人で朝食のフレンチトーストまで作っているのに、犯罪容疑者と部屋を間違えられて、家に押し入った警官に撃たれる。

4回目も打たれる。5回目もとにかく撃たれる。6回目もいつの間にか撃たれている。7回目、逃げても打たれる。(続く)

なんか、近代アメリカ史における、白人警官による理不尽な黒人殺害事件のぜんぶを追体験させられているかのような不幸な主人公。もはや「一夜をともにした女性」は置いてけぼりだ(笑)。

次の「回」は彼女と話し合う。彼女のアドバイスは「撃ち返す。相手がニガーなら話してみるけどね」。今度は巡査に自分から話しかけてみる。でも別の流れ弾にやられる。

その次。それまでの話をまた全部巡査にしてみる。とうとう巡査は彼をパトカーで自宅まで送ることに。車内で巡査は自分が昔いじめられていた話をしたり、主人公は白人の恩恵の話まで…どんだけ遠くに住んでるんだ!

車は、ジョージ・フロイドをはじめとした、警官による殺害の被害者の名前が屋上に書かれた建物の間を走り抜けてやっと、愛犬の待つ彼の家へ。そこで突然、すべてを最初から知り尽くしていた、神のような悪魔のような視点を持つ巡査がネタバレの後彼を射殺して「また明日」。待ちぼうけをくう愛犬。

100回繰り返してもダメ。「ダメ」がこの映画の主張だから。フィクションというより主張映画という感じです。

アメリカにいる黒人がすべて犠牲者になったとしても、今度はアジア人あたりがターゲットになるだけだ。嫌いな順に、自分たちがかつて受けてきた屈辱を晴らす対象が選ばれるだけ。ターゲットのほうをいくら研究しても絶対解決しないんだ、加害者になる側がどうやって加害者となっていったかを「自分」のこととして共有する勇気をもたなければ。アンガーマネジメントというより、自分の心の奥にどんどん溜まっていって、日に日に見えないところへ隠れていく「憎しみ」とどう向き合うかという問題なんじゃないかと思う。

いじめとか虐待という言葉が、程度によって使い分けられるべきなのか考えると、そういう言葉を使いたくなくなるんだけど、子どものころからわりと憎まれたり攻撃されたりしやすい私としては、最初に攻撃される自分の何がそうさせているのかを思い悩んで、結局それでは事態を変えられないことに気づく。自分自身の中にも、頑迷でなかなか人を許せない部分があることも認識するに至る。自分が変わらないのと同じように人も変わらないから「話し合ってわかりあう」ことには限界がある。逃げるしかない、対立を避ける、というのが「イマココ」といった感じなんだけど、加害者になりがちな人にも「嫌いな人に注目するな、目をそらせ、気にするな」としか言えないな。最近は「正義って人それぞれ違うイメージを持ってるから、正しいことを目下の人に仕込もうとする」こと自体がNGだと思う。自戒も兼ねて。