映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ジェームズ・アイヴォリー監督「ハワーズ・エンド」2958本目

これなぁ、大学のゼミでやったやつ。公開当時にロンドンで見て、けっこうイメージ通りだった気がするけど、あまりに遠い昔なので久しぶりに見直してみます。(押入れの奥で発見した当時の駐在レポートによると92年5月21日にロンドンのCurzon Cinemaというところで見てました!)ああ、懐かしい。そうそう、エマ・トンプソンとヘレナ・ボナム・カーター。カーター演じる妹はまだ少女みたいで可愛いんだけど、夢みがちで誘惑に弱すぎる。一方トンプソン演じる姉は真面目なしっかり者。

「紅茶は何種類もあるんですのよ。スコーンはいかが?」なんて絵に描いた英国ふうの会話、むしろ外国で作った映画なんじゃないかと思ったら、制作国はUK&日本とある。(住友商事がどういう経緯で出資したんだろう?)

家に名前を付けることや、階級がこんなにはっきりしていることは大学生の私には新鮮だった。

過去にひともんちゃくあった一家がお向かいに引っ越してきたときに、「逃げ出したいときに逃げ出せるだけのお金があることって大事」…って会話は原文で印象に残ってて、自分もそうありたいとずっと思ってきた。レナード・バストの年上の愛人ジャッキー"You love Jacky, don't you?" の存在(改めて見ると、髪型も雰囲気も最初からヘレンに似てる)、粉をお湯で溶かしただけのゼリー…ヘレンがレナード・バストに同情してしまってヤバいことになってしまう場面でいつの間にか彼を「レン」って呼んでたこととか…これは映画のほうだな。

裕福で誇り高い階級のひとたちの心の中に "panic and emptiness"しかない、って言うのは原書にあった。ハワーズ・エンドにシュレーゲル家の家具やじゅうたんがぴったりフィットすることとか…大学生のときの驚きや違和感は、外国だからとか階級があるからとかじゃなくて、まだ世間知らずだったからで、今みるといろんなことが普遍的に見える。金持ちのひとことで破産してしまったレナード・バスト夫妻への仕打ちを恨んで姉の結婚式で暴れる妹は、ネットで巨悪を糾弾する人に通じるものもある。正義といえば正義だけど、たくさんの人を傷つけて、結局誰も助けてない…。

真面目なメガネ女子(とは限らないが)が熱中する英国文学はこんな、スキャンダラスな小説なのでした。原作者E.M.フォースターは「モーリス」の作者でもあり、ゲイだったことが知られてるんだけど、この小説は結局、銀行家の生き方が破滅につながり、家を愛し家庭に生きるその妻の世界が家族を包み込むというストーリーなんだ。ゲイの男性が書くものは、強権的な男性をきびしく糾弾して女性にやさしいものが結構多い気がする。(ペドロ・アルモドバルの映画もそうだ)もしかして彼らは、自分たちを女性のほうに投影してるのかな。…なんておことを今なら思ったりする。

映画も本も、若い頃からいろんなものに触れていると、年をとってからまた触れ直すことで、自分の成長も見直せるな。あの頃もっと映画を見て本も読んでおけばよかった…。

結論として…アンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンは、「日の名残り」ではアレだったけど、前世ではちゃんと結ばれていたんだな(違う)

ハワーズ・エンド(字幕版)

ハワーズ・エンド(字幕版)

  • 発売日: 2020/11/04
  • メディア: Prime Video