映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ルツィア・ストイェヴィッチ 監督「ラ・チャナ」3011本目

スペインの「ヒターノ」、ジプシーの出自をもつフラメンコダンサー、ラ・チャナのドキュメンタリー。ヒターノのつづりはGitano、そういえばジタンっていうフランスの煙草の箱にはフラメンコを踊ってる女性の絵が描いてある。ヨーロッパ地続きだもんな。どんな経緯でこの民族の名を冠した煙草がフランスでメジャーな煙草になったんだろう。

話が脇にずれました。ラ・チャナのダンスはとにかく情熱的。動きは大きくないのに、激しく踏みしめる足元、思いの詰まった表情、見ていると飲み込まれそうです。もしかしてこれはタップダンスなのかなと思うくらい、足以外の部分の動きは少ない。でもその足のリズムの速さと強さ。ダンスを習ったこともない、身体の中から出てくるものだけで踊るダンス。彼女はたぐいまれな、天衣無縫のダンサーだったけど、小さい民族集団の因習の強さは、アメリカの山岳地帯に住むヒルビリーの世界を描いた「ウィンターズ・ボーン」を思い出しました。少数で暮らす人たちの暮らしを守ることは大事だと思ってたけど、大勢の目に触れることでやっと「それっておかしくない?」と言ってもらえることって多い。それはもしかしたら、どんな小さな集団にも生じる、その集団の中の虐げられた人々が、大勢のグループに取り込まれることで、少数者として目立たなくなるってことなのかも、と思いました。

自分より偉大な妻をもった夫が妻を家で虐待する話って、欧米ではわりとよく聞くことらしい。若い頃は、そんな集団を抜け出して、自由の国を探しに行けばいいのに、って思ったものだけど、そうすると頼れる人も帰れる家もない完全に孤立した状態で、自分の能力だけで生きていかなければならない。これは、すごく消耗する。また誰かに認めてもらえるか誰にもわからない。ピーター・セラーズとハリウッドに行って、一時的なブームとして消費されて終わるのが本当にいいことなのか。小さい集団に埋没して、自由のない保護のもとで生きていくことと比べて、そのほうがいいんだろうか。(選ぶのは自分だから、どっちがいいという計算じゃなくて、やむにやまれず決断するんだと思うけど)

彼女は足のリズムで踊るから、タップダンサーとして尊敬する人もいそうだし、リズムを生み出すからパーカッショニストとも呼べそう。今もスピードが落ちず、若い男性たちがついていけないなんてカッコイイ。舞台でまったく笑顔を見せないのも、動物的で噓がない感じがする。一日に百万回くらい愛想笑いをしてる私にはまぶしく見えました。