<後半のストーリーに触れています>
U-NEXTの”見どころ”に書かれている「ウィンスレットとローナンの体当たりの演技合戦」がセンス悪いなぁ。濡れ場のことを”体当たりの演技”っていう、使い古された常套句。映画を見るのは女優のヌード目当ての男ばかりだと思ってるとしたら、女優たちだけでなく見る人もばかにしてるよなぁ…。
感想ですが、この映画を見ながら、「ピアノ・レッスン」を思い出しました。海辺の寂しげで美しい風景のなかで、乾ききっていた女性の心に情熱が呼び覚まされる。若い頃この映画のシアーシャ・ローナンのような役を演じていたケイト・ウィンスレットは、固太りで頑迷な中年女性をみごとに演じている。夫に支配されて死んだようになっている若い妻を演じたシアーシャ・ローナンも素晴らしいです。この天真爛漫な若い妻は夫に人形のように扱われ、欲求不満も抱いている。リー監督はネットで見つけたインタビューで、この時代は同性間の恋愛にタブーがなかったと言っている。「好き」に縛りがないと思えるなら、若い妻が化石屋の女性に焦がれてもおかしくはない、か。化石屋は以前、彼女よりずっと年上の女性の思いを受け入れなかったことが示唆される。
若い妻が夫に呼び戻され、別れがやってくる。彼女は化石屋と暮らす未来を夢見る。化石屋はもとの静かな暮らしに埋没している。大英博物館で見つめ合う二人。
若い妻が化石屋にしようとしていることは、自分が夫にされたのと同じことだ。彼女は化石屋だけでなく自分を、人間を、まだよく知らない。見ているものたちは、彼女たちの幸せな未来を望みつつ、そうはならないことをうっすらわかっている。
最近ほんとに、女性同士の恋愛の映画が多い。同性どうしのほうが政治や家族やいろんなしがらみのない、純粋な愛情を描きやすいんだろうけど。
「あなたは私のことが何もわかっていない」と化石屋が若い妻に言う。彼女たちに限らず、恋愛って自分の妄想を相手を借りて増幅させることなのかな、と最近思ってる。
ところで化石。アンモナイトの存在が映画じゅうずっと気になる。そんなにすごい、ありがたいもんなのか?以前シベリアのツアーで一緒になった女性(若くはないけどとても綺麗な人)が化石を買いたがったけど手に入らずがっかりしていたのを覚えていて、グランドキャニオンに行ったときに三葉虫か何かを買って送ってあげたことがあったな。とても喜んでくれた彼女は、その後元気にしてるんだろうか…(恋愛関係はありません)