この映画を初めて見たのは2014年。たぶんまだダブリンに行ったことはなかった。その後私が見たダブリンは日が短くて、とにかく小さな町で、この映画で見える範囲よりちょっと広いくらい、という印象だった。なんか、「吉祥寺」ってかんじ。
吉祥寺のはずれの街道沿いの練習スタジオに、通ったことがあったな。ギターケース背負って先輩のバイクの後ろにまたがって、五日市街道を走って行った。下手なコピーバンドだったけどオリジナルもやった気がする。コピーバンドっていうと薄っぺらいけど、大好きな曲を仲間で鳴らすのはすごい体験だった。というようなこととか、その頃の自分の気持ち、誰かに夢中で授業中も夢の中もずっと考えていたり、小さなことでひどく傷ついて、そのままふらっとどこから落っこちそうになったりしたことを思い出して、今とは別の人間みたいだったと思う。人の心って摩耗して丸くなったらもう、つるつるの無感動な表面だけになってしまうのかな。この映画を見てると、ちょいちょい、前世のように遠い、多感な自分が、0.01秒くらいフラッシュバックして、どっと涙が出たりする。
このむなしいような切ないような気持ちは、もう自分は恋をしないとわかってしまったからか。もう誰も自分に恋をしないとわかってしまったからか。痛くて苦しいだけみたいに思えた頃の時間は、そう考えると、すごく得難い時間だったんだな、と思う。たとえば、自分が失恋自殺をする可能性は、30年前には5%くらいあったかもしれないけど、今はもう0%だ。
この映画の中の歌って、そういう痛む心がストレートにメロディと歌詞になってるのだ。君ってひどいよ、とか、こんなに頑張ってるのに、とか。でも愛してるよ、という気持ちがあるから、メロディはとても優しくて美しい。
自分でも、いま、何を思い出してるのかはっきりわからない。なんか死にかけてる人の走馬灯みたいだけど、いつ誰を思っていたときの気持ちなのか、どの仲間と夜中の道路を走ったときなのか、だんだんそういうものも丸まっていっしょくたになって思い出せなくなっていくのかな。
すでにもう永遠に失われた記憶だかなんだかを懐かしむために、多分また何度もこの映画を見るんだと思います。私は。