映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

オムニバス「光陰的故事」3991本目

1982年公開の、台湾のオムニバス映画。タオ・ドゥーツェン、エドワード・ヤン、クー・イーチェン、チャン・イーの4人の監督の短編が収められています。エドワード・ヤンの数少ない作品のなかでこれが一番古くて、ずっと見たかったんだけど、とうとうTSUTAYA DISCASでDVDを借りました。今から42年も前か…。フィルムのなかの子どもたちは全員もう中年だ。光陰矢の如し。(タイトルでも言ってるし)

私が台湾の人たちと仕事をするようになった1990年代始めにはまだ、メイクやファッションがどこか日本とは違ってたけど、2000年以降は見た目で区別がつかなくなった、というのが私のなかの台湾の文化史。

なんとも懐かしいたたずまいの4つの短編映画ですが、どれもじわじわと温かく、なんだか台湾が好きになってしまう(もともと好きだけど)良作でした。

タオ・ドゥーツェン「小龍頭」(恐竜君)

小学校低学年男子の、ときめきや恥ずかしさ。教室で暴れて机から落ちて…。なんだか懐かしい、日本の「ケンちゃんシリーズ(もうわかる人あまりいないって)」みたいな世界が台湾のすこしエキゾチックな風景の中で展開します。勉強の邪魔になるから、と捨てられてしまった恐竜のフィギュアを、預けられた先の女の子と一緒に探しに行きます。夜なのに。宝物を親に捨てられる経験って、痛いんですよね。子どもの世界はまだとても小さいから。

エドワード・ヤン「指望」(邦題は画面上「希望」となってるけど、Google翻訳では「頼りにしてください」となりました)

これ、最初から切ない。すこし大人びた少女と、小さくてイガグリ頭のまだ子どもっぽい少年。二人で自転車の練習をしたりして楽しそうなんだけど、明らかに少年は少女に恋をしていて、少女の眼中にはない。この切なさ、まさにエドワード・ヤン的世界だ。少女の姉はもっと大人びていて、母親に内緒でメイクして夜遊びに出かけたりしている。この家に間借りしようと、男の学生がやってくる。父親のいないこの家では新鮮な「男」の存在感。同じように彼に目をつけていた姉のほうがあっという間に彼の寝室に入り込む。ショックを受けた少女の前に現れるイガグリ君。「自転車に乗れるようになったらどこへでも行けると思った。でも乗れるようになった今、どこに行ったらいいかわからないんだ」これ、発展しつつあった当時の世相にも重なると思うけど、世界中どこの国の誰にでも経験しうる感覚だと思います。じわーーっとくる佳作です。

クー・イーチェン「跳蛙」(跳ねるカエル)

大学が舞台なんだけど、主役が老けてる…でも雰囲気が会社員なだけで、実際は若いのかも。メガネが大きすぎるのかな。中身はむしろ初々しい男です。逆にこの作品でも、大胆に主人公に迫る女性がいます。メガネを外した主人公は若干若く見えて、憧れの女の子は若い頃の仁科明子に似てて清楚。いろいろあるけど、やったぜ!という場面で終わって後味さわやかな作品でした。

チャン・イー「報上名来」(名を名乗れ)

また、むさくるしい若い男と、しっかり者の若い女が登場。パンツ一枚で引っ越したばかりの家から閉め出される、というドタバタ。何が起こるかと思ったら、(短篇なので)朝のシーケンスだけで終わりました。ただもう楽しい。