映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

スティーブン・フリアーズ 監督「ハイ・フィデリティ」2305本目

ロブを演じてるジョン・キューザックも見覚えがあるけど、反応が大きいローラの女友達が、もっと見覚えがあって、なんだか可笑しいと思ったら、その姉のジョーン・キューザックですね。むかーし初めて旅行したニューヨークのホテルでTVを付けたら伝説?の「サタデー・ナイト・ライブ」をやってて、狂喜して写真を撮ったらブラウン管なので映らなかった、っていうあの番組に出てた彼女です。

この映画って、なんか地味だし、語りが多すぎてクドイ感じがするんだけど、女たちがみんなチャーミングで、ロブがダメすぎて、だんだん「しょうがないなー」っていう気持ちになってきます。レコード店の店員と弁護士か・・・。外資系OLとバーテンダーというのに近い気もしますね(って自分の大昔の話かよ!)

この男ほんとにダメだけど、ローラは結局こいつがやっぱり好きで。損得を考えたら絶対別れたほうがいいのに、ただ好き、っていう。そういう恋愛って大人になるとできないよな・・・。

しょうもないけど、がんばらなくてもいいやという、いい気分になれた映画でした。

シカゴって(この映画の舞台)行ったことないんだよな。行ってみたいな…

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是枝裕和監督「真実」2304本目

賞をとった監督がすぐに外国の俳優で撮る映画は、ふだんの映画より面白くないというジンクスが私の中にあって(偏見かな)、かなりドキドキしながら見ましたが、是枝監督のドラマチックな作品(「誰も知らない」万引き家族」とか・・・少なくとも中で誰かが死ぬ作品)とは違う、地味な佳作のほうに属するいい映画だったんじゃないかなと思います。今までの日本的生活文化や情緒がたっぷりの作品とは違って、いろいろフレンチ感があったけど、フランス人から見たらどうなんだろう?

カトリーヌ・ドヌーヴはいつ映画で見ても隙ひとつなく、弱い役をやっても悪い役をやっても、あまり人間みがなく端正だなと思ってたので、この映画でとうとう初めていやらしい人間性のにじみ出る役をやったと思いました。口元がひくひくする演技とか。改めて、是枝監督の映画に出てくる人はだいたいみんな、心のなかに多少ゆがみがあって、ろくでもないこともするんだけど、それが愛される人間性にもつながってる。フランス映画の登場人物にはそういう「ゆがみ」を感じることってあまりなくて、もっとみんな意見や感情がストレートな感じがしてたので、この微妙な違いをどう感じてるのか、違和感があるのかないのか知りたいです。

ジュリエット・ビノシュの役柄は、逆にそれほど違和感はないんだけど、最近の彼女は若いころのふわふわした不思議ちゃん役とは違って、戦場カメラマンとか、強い主義主張を持つ成熟した大人が多いので、普段の役柄からみると親子関係のこまごましたことに終始していてスケールが小さい感じがしなくもないです。

イーサン・ホークは一番はまり役なんじゃないかな?健康的で元アル中には見えないけど、妻の親や娘の機嫌を気配りするアメリカ人夫にぴったり。フランソワ・オゾン監督作品の常連リュディヴィーヌ・サニエは、今回はまったく毒のない役。劇中映画で年を取らない母の役を演じるマノン・クラヴェルは若さでいっぱいなのに話すトーンが低くて、そのギャップに引き付けるものがあります。

フランス映画と日本映画の違いは、フランス映画の登場人物たちは意地悪である自分を確信犯的に肯定した鋼鉄のような自我をもっている一方、日本映画の人たちは常に迷い、とまどいながら、周囲とコミュニケーションをとることで自分の立ち位置を確認しながら、おそるおそる歩いている。という点だ。この映画は監督・脚本の是枝氏の世界がやっぱり日本だから、日本的自分になれているかどうか、演じる人たちも手探りだったんじゃないかなー、と深読みしました。

この映画でも、台本を使わずに場面の趣旨だけを伝える演出をしたのかな。どの国の映画人も、是枝監督の制作手法や出来上がった作品のメッセージや思想に興味深々で、関われることはきっと、予想できないものだったとしても、ワクワクしながら臨んだんだろうな。

という風に、最初は懐疑的だった私も、「是枝組」の丁寧な作品作りで完成した映画を楽しめたし、背景を想像して二度楽しみました。この映画は、2年とか5年とか時間を置いてまた見てみたいな。

※ ファビアンヌがマノンにプレゼントする自分の若いころのワンピースは、「昼顔」で彼女が着たものにソックリ。これってオマージュっていうの?

大島渚監督「青春残酷物語」2303本目

桑野みゆき演じる主人公が、パツパツでチャーミングなんだけど若い子らしく無鉄砲で、見ていてハラハラします。今のほうがこういう子を何とかしようという大人が少しは多くて、探してくれればNPOなんかも見つかると思うんだけど、この時代には「自己責任」どころか「自業自得」としか言われなかっただろうなと思う。だから「青春残酷物語」。

彼女が好きになるのは、のちに良いお父さんなどを演じることになる川津祐介の、フラフラして誠意のない青年。彼は明らかにだいぶ年増の人妻とも関係がある。桑野みゆきが寝たという裕福そうな男性にまでたかり、警察に突き出され、金が必要になってまた彼女を売る。それほど悪気もなく、ただ流されている。

心がしっかりしていなければ、こんな若い美しさは売り物にされるだけで、何の役にもたたない。こんなふうに若さが安く消費されるのは、いつの時代にもあることなのかもしれない、その態様が時代によって違うだけで。この映画みたいなあからさまなアンチクライマックスでショッキングに結末をつけてもつけなくても、食い物にされる人たちっているんだろうな。まっすぐに落ちないで逃げてほしいし、どんな目にあっても生きてほしい・・・

 

ドゥニ・ヴィルヌーヴ 監督「メッセージ」2303本目

2年ぶりに見てみました。

本格的な宇宙SFなのに、戦闘能力ゼロの女性が主役。テーマは、上の自分と違うものたちや、地球外の自分と違うものたちとのコミュニケーション、そして時間というものの既成概念を超えること。未来を見ること、過去を現在のように感じること。というのが頭に残っていて、点数でいうと100点からは遠いのに、この映画が私に残したものは大きかったのです。

中国の総統と彼女が出会う場面、彼女が解読方法を見出す場面を、どうしてももう一度見たかった。なんでこんなに見たかったのかな?予知能力なんて呼ぶと、むしろそれは矮小化されてしまっていて、彼女が受け取った能力で知ることができるのは多分「すべて」。でも本当は人間にも本来、うっすらと少しずつみんなに備わってるものなんじゃないか?泳げないと思っている人が訓練で泳げるようになるようなもので。

私が気になってるのはこの映画そのものというより、未来を見る能力が誰にでもある世界って、どんな世界なの?ということかもしれません。

ばかうけ」形の宇宙船は、モノリスと同じでは「いかにも」すぎるので、ちょっと角を丸めましたっていうイメージかな。原作では形状についてどのくらい細かく書かれてるんだろう。宇宙人の形状は、墨を吐くという伝達方法を用いるためにタコにする必要があったんだろうけど、現実的にもし地球外生命体がいたとしても、猫の形でもタコの形でもコンピュータのキーを打てないし、とがった石を削って武器を作ることさえできない。だから地球と同じ成分が多い星の上で進化する生き物は人間と似た形状になるんじゃないか、という意見に賛成です。あるいは、その後キーもスクリーンも不要になったらどんどん器官が退化してタコになったのか?

それにしても、文字が通じなくてもピクトグラムとかビデオとかを作って自前の装置で上映すれば、私たち地球に来る・・・助けて、そのうち助けられる・・・みたいなことは十分それだけで通じるんじゃないかとも思う。など、何度も見てるとつい細かいことが目に付いてくるんだな・・・

とりあえず原作読みます。作者のテッド・チャンって人もなかなか興味深いです。

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原作読んだので書き足してみます。英語原著なので意味誤解してるところもあるかもしれないけど。(以下すごくネタバレ)

割と根本的なところが原作と映画では大きく違う。大きいところから行くと、宇宙船はほかの場所には来ないし、誰も彼らを攻撃しない。3000年後のことを告げることもないので彼らの目的はわからないままだ。

彼女がヘプタポッドに文字を書いて見せるのはコンピューターと大きなスクリーンであって手書きではない。愛称はアボットコステロではなくFlapperとRaspberryだけど見分けはつかない。娘の死因が違う。

でも、始めも終わりもない書き言葉を持つ異星人の来訪、その言語を習得することで、時制を超えることを知ること。という設定の科学的な美しさは原作のすごいところで、映画でもこの一番重要な部分は生かされてました。この設定は偉大で、さらに別の二次創作がいくらでも出てくるんじゃないかと思うくらいの大発明だと思います。

小説では、彼女の娘に対する独り言と、ヘプタポッド言語解読の思い出が交互に出てきます。面白いのは、“I remember a conversation we'll have when you're in your junior year of high school"みたいな時制がおかしな文章が出てくるところ。「あなたがこの先、高校3年になったときに話すことを思い出してる」と、将来起こることを過去に認識していたことを示してる。

映画のほうの面白いところは、墨を吐き出すことで一気に円形の文章をつづるという方法論とその表現の美しさだなぁ。

地球上のいかなる言語ともまったく違う言語と、それによって表される時間。最初も最後もない円形の書き言語を持つ左右対称の高等生物の文明があり、その文明ではその文字と同様、時間に始まりも終わりもない、つまり時間はつながっているので一度に全体を把握することができる。…映画ではこの肝の部分についてはほのめかすだけで終わってるんだけど、けっこう強く私には届いてました。本の方の感想には「ソラリスを超える戦慄」とか書いてる人もいて、何度も読み返すたびに深まっていきそうなおそろしい中編です。この著者について、もっと調べてみなければ…。 同じ短編集の「Understand」っていう作品も近々映画化されるらしい。(翻訳に不正確なところがあるようなので、難しいけどやっぱり原著いっしょうけんめい読みます)

メッセージ (字幕版)

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ビリー・ワイルダー監督「深夜の告白」2302本目

ビリー・ワイルダーって人は・・・。

ヒッチコックの映画も嫌な気持ちを喚起しますが、あっちは自分の身が危ない!という気持ちで、ワイルダー作品は、悪いのは自分だという罪悪感から来る嫌な気持ち…という意味で、かてて加えて不快感が強い。うーむ。あまりによくできていて…。

「告白」から始まるところが「サンセット大通り」を思わせます。こっちは生きてるのですが、実は撃たれていて瀕死ということが最後にわかります。なかなか死ななさすぎる。。。

(あとさ、この舞台となるお屋敷、もしかして「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」のあのお屋敷じゃない?右側が玄関で、その左にガレージがあって。…あの映画のどこかの解説にそう書いてあったからこの映画見たんじゃなかったっけ?)

原題はDouble indemnity、「二重保障」という保険用語らしい。これに触れた場面ってあったっけ?車の保険のほかに傷害保険にも入っておきましょう、って部分のことかしら。

深夜の告白 [DVD]

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石川慶監督「愚行録」2301本目

重ーいカメラだったな。音楽も。なかなか劇場的で魅力的なんだけど、演技には黒さはまったく感じられなかった。それも演出意図なんだろうか?最近の「イヤミス」が原作の映画の中には、役者さんたちが自身の黒さを出し切って気持ち悪いくらいどろどろとした演技を繰り広げるものもある。それと比べると、しつらえが黒い割に全然重くない映画だった。ちょっと不思議。

やっぱり・・・こういう「スクールカースト」をテーマにしたものって、本当は存在しない枯れ尾花を幽霊と信じることで成り立つ、つまり授業が終わって学校を一歩出たらバカバカしくなる、そんなところがあるから、普遍的な人間を描いたものになりづらいんじゃないのかな?そんな風に思う人って少ない?

どんでん返しも、最初から「3回の衝撃」とあおられたことで逆に予想が働いて、だいたいの結末が想像できてしまったのが残念でした。

蜜蜂と遠雷」を見てこの監督に興味を持ったんだけど、どっちかというと画づくりに熱中してしまう監督で、演技づけがちょびっとだけ甘いと思いました。いい役者さんが出てるんだけど、腹の底から絞り出すところまで役の理解が深まっていないような。でもとても面白い映像制作をする人なので、これからも見ていこうと思います。 

愚行録 [DVD]

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ローレンス・オリヴィエ監督「王子と踊子」2300本目

この映画の撮影裏話「マリリン7日間の恋」を見たあとでこの映画を見る人ってたくさんいるだろうな。ローレンス・オリヴィエはきっと、英国的虚飾の中にこの天衣無縫な女性を放り込んだら面白そうって思ったんだろうな。モンローのセリフも、その秩序の順や間に沿って言わされるので大変だったろうな、と感じます。オリヴィエは英国的秩序の中に、それを笑える人間性が隠れてることをよーくわかってる(妻はヴィヴィアン・リーだしモンティパイソンの国だし)けど、モンローはそういう虚飾のなかで育ってないから、虚飾が無駄な形式にしか見えなかっただろうし、どこをいじっていいのか悪いのかもわからず、ボーデイングスクールに放り込まれた野生の動物みたいに戸惑ったんだろうなと思います。

しょっぱなからこの二人の出会いは、あいさつしたときのモンローの「おっぱいぽろり」というのが、隠れスケベ紳士の国、英国らしくて笑えます。オリヴィエもその線を狙ったんだろう。でもこの冷たい(本当は見せかけなんだけどね)人々の中でひたすら道化を演じなければならないモンローの緊張感や孤独は、大変なものだっただろうなと思います。極度のアウェー感ってやつ。

モンローはすごく聡明な女性で、アメリカでは「愚かにふるまいつつ実は賢く、でもその根っこはやっぱり男に劣る」という女性像が求められることをよく理解してずっとそれを演じてきたんだと思う。イギリスのカッコつけの紳士たちは、本当は自分たちの浅さをよくよくわかっていて、女性たちの地に足の着いた姿勢を尊敬してる。オリヴィエは彼女に、無邪気を装った成熟を期待してた。でも彼女自身は、わりとネガティブな自己認識を持ち続けた人だと思う。(アメリカの)男に求められる女性像を演じ続けて愛されることで自分を保ってきた人が、突然外国に連れてこられて難しい役をこなさなければならず、自信のないままずっと時間つなぎをしつづけたのかな、と思う。

自己認識の高低って一生すべてのことに関わってくるんだな。高めるのはすごく難しいけど、時間をかけて丁寧に自分を認めてあげられたら・・・(私自身も含めて)

もともとアメリカよりイギリスが好きでハリウッド映画よりモンティ・パイソンのほうを先に見てた私の目には、オリヴィエったらコメディもやるじゃん、という上出来な映画なのですが、やっぱりモンローの存在感はちょっと異質で、気の毒な気持ちになります・・・。