映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

クリント・イーストウッド監督「許されざる者」1636本目

<ネタバレ、ありあり>
1992年、監督として地位を固めてきた頃の作品、かな。
単純な西部劇とはちょっと違う、小さな違和感がたくさんある作品でした。
もともと西部劇のヒーロー俳優だったわけで、彼があえて監督・プロデューサーとしてこの映画を作った理由が、そういう違和感の中に見え隠れしてるように思います。

例えば、
・賞金がかかった男は、冷酷無比な連続殺人犯じゃない。娼婦に、笑っちゃいけないところを笑われて逆上して彼女の顔にたくさん傷をつけただけだ。命はおろか、腕一本奪ってない。彼は賞金をかけて殺されるほどの悪人なのか?
・賞金の元手は、娼婦仲間が貯めた貯金を出し合ったものだ。
・主人公の相棒が黒人である。
・賞金首の二人目は、トイレで用を足しているときにまだ少年のキッドが撃った。こんな無防備な状態(銃に手をかけてたとキッドは言ってるけど)の人を撃つのがいいことなのか?
・なんだかんだあった後で、結局主人公マニーは子供たちとカリフォルニアに移ってビジネスを成功させた、というテロップが入って終わるのが、「・・・いいけどなんかうまくやりすぎじゃない?」感をかもし出す。
・殺し合いが普通の時代なのに、銃を持って街に入っただけで保安官に拘束されてしまうのを見ると、現代に生きる私でも「銃は持ってた方がいいんじゃない?」と一瞬思ってしまう。
・・・など。

単純な勧善懲悪によるカタルシスが何もない映画で、映画の中の当事者たちも全員モヤモヤするんじゃないかな、という感じ。このモヤモヤを実感することがこの映画の意義なのかもしれません。実際の開拓時代にも、スッキリしない殺し合いがあっただろうし、ちっとも悪くない人や、それほど悪くない人も、生々しい血の匂いを漂わせて死んでいっただろうから。

イーストウッド監督の良さは、こういう「単純な答えを見せようとしないところ」なのかな。例えば銃の全面禁止vs全面解禁という対立があるところで、どっちかにくみすることをせず、どちらの陣営に対しても、どこか暖かく、どこか突き放したような視線を向ける。この映画も、見終わったあとに、ちゃんと考えようと思わせる映画でした。