映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

森井勇佑 監督「こちらあみ子」3614本目

この映画は、見始めてすぐ、あみ子ヤバいぞ!と気づいて、病院から赤ちゃんを抱かずに帰ってきたお母さんに「赤ちゃんは?」「赤ちゃんは?」と大声で毎日100回繰り返して、家族総出でボコボコにされるのかな、とドキドキしました。これは義母の視点。私もピリピリしてるときに無神経にうるさくされるのがかなり苦手です。

でも、一度やらかしてしまったことで完全崩壊する家庭であってほしくない、とあみ子の視点で感じていたりもします。純粋な善意による行いが赦される世の中であってほしい。愛情で解決できないか、試してみてほしかった。彼女を巻き込んできちんと話をしないのは”やさしさ”なのか、諦めと疎外なのか。あみ子は「なんでみんな黙ってるの」と一人でつぶやきます。

これ昔から自分の中で悩み続けてることなんですよ。私はあみ子のように空気読めない部分と、義母のように神経質な部分が両方あるので、あみ子に似た人を傷つけてしまったことも、義母のような人を傷つけてしまったこともあって、どうやって折り合いを付けたらいいかずっと考えてるけどまったく答は出ません。わかってることは、こういうことをあまり深刻に考えると、この映画のように辛いさびしい成り行きになってしまうということくらい。あみ子を変えるのも義母を変えるのもほぼ無理だし、父が受け止めることも兄がぐれないことも難しい。

昭和の戦前戦後の子どもたちの出てくる映画とか見てると、感情むきだしの暴れん坊なんていくらでもいて、親も先生もそいつらをボコボコに殴るし、泣かしたり怒らせたりしながら嘘のない気持ちをぶつけ合う中で、どの辺が中くらいなのかをなんとなくそれぞれわかっていくように見えます。何もかも正しくきれいな世界になってしまうと、どうやってもはみ出してしまうあみ子は置いてけぼりだ。

この映画の結末には、味方になってくれる大人を一人も見つけられないまま大人になって、しょうもない男にひっかかったあみ子が出てくるのかな、窓のない施設に閉じ込められて毎日絵を描いているあみ子かな、などと心配しながら見ました。あみ子なりの疎外感に圧倒されて海へ歩き出したら、沖の舟の人たちが最初は「おいでおいで」をしてたけど、それがだんだん「バイバイ」になってみんな行ってしまう。その瀬戸際。一人のときに事故にあって死んでしまう子どもって案外こういう瀬戸際を超えてしまった孤独な子たちも含まれるんじゃないか、と思ったりもします。

やらかしちまった人たちが、それぞれ、やっちまった後ろめたさを持ちつつも、完全に出ていかなくていい世界がいい。変な人もヤバい人も、まあまあウェルカムで、ぶつからずうまくお互いにすり抜けられる世界。いろいろあってもみんなでおいしいご飯が食べられる世界。そういうのを作っていきたいと思います。

噓のない、真正面から迫ってくる力作でした。

こちらあみ子

スタンリー・トン 監督「ポリス・ストーリー3」3613本目

「エブエブ」のミシェル・ヨーの若い頃のアクションを見てみたくなって、U-NEXTを検索したら入ってたのでさ~っとアクションの場面を中心に流して見てみました。

ほぼ今から30年前。ちょっと堅いですね。今のほうが圧倒的に妖艶で迫力があります。白雪姫に出てくる魔女みたいに、いろんな滋養を身に付けて美魔女になったのではないかと思うくらい。この映画ではミシェル・キングと名乗っていたようです。

ここではやっぱりジャッキー・チェンの親しみやすさとアクションのすごさが印象的で、改めて彼の作品も見直してみようかなと思いました。

 

黒澤明監督「乱」3612本目

<映画の内容や感想については一切触れていません>

これも村田喜代子「偏愛ムラタ美術館【発掘篇】」で紹介されていた黒澤監督の絵コンテ集を見て、改めて見直さずにいられなくなりました。

本で紹介されていたのは、原田美枝子が草原に倒れている場面。あかるい草原に綺麗な着物を着た女性がうつぶせに倒れていて、頭の部分に青い草がかかっています。清らかな人の死なのでしょうか、青々とした草と咲き誇った花々に、ミレーの川を流れながら最期を迎える「オフィーリア」の絵を思い出します。こんな場面、映画にあったっけ?

探して探して2回見たけど、どうしてもその場面が見つからりません。手がかりを探して、画像のほうを検索してみたけど、これが「末の方最後」というタイトルのリトグラフで、オークションなどでけっこう売り買いされてることはわかりました。宮崎美子が演じた役です。彼女は原田美枝子演じる「楓の方」に謀殺されそうになるのですが、生き延びて、盲目の弟と逃亡しつつあります。かなり最後のほうでも城壁の上で生きて弟と話をしている・・・と思ったら、弟の笛を取りに戻った召使いがなかなか追いついてこないので、「私が行って様子を見てきます」という死亡フラグ!

・・・「末の方の最後」は、彼女たちのさびれた実家の前に斃れた召使いと彼女自身の場面でした。リトグラフのように明るい昼間ではなく、薄闇の中、楓の方に献上された頭部を木の花で隠すようになっていたんですね。映画では、召使が手に持った笛ですべてを表そうとしていて、彼女たちの清らかさはあまり伝わってきませんでした。。。つまりあんまりオフィーリアっぽくなかった。

この場面は2時間40分強のこの作品の2時間30分頃。ずいぶん見つけるのに苦労したけど、やっと見つかってほっとしました・・・。

乱

  • 仲代達矢
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黒澤明「夢」3611本目

村田喜代子「偏愛ムラタ美術館【発掘篇】」という本を読んだら、黒澤明の絵コンテ集のことが書かれていました。映画より絵コンテのほうを強烈で面白いと感じる著者に共感するところがあったので、本で絵コンテが引用された映画をさらっと何本か見直してみようと思った次第。

「夢」は、寺山修司「田園に死す」(1974年)の黒澤版だなぁ。そして、画面の印象は確かにゴッホや棟方志功を思い出す絵コンテのほうがインパクトが強烈。映像になるとリアリティが増す分、怪しさは際立つけど。夢の中では人間の頭:胴体の割合や遠近感なんかもどうでもいいもんね。

この映画、作品としてはとらえどころがないけど、何枚かの絵の完成度はすごいです。自分が死んだことがわかっていない一小隊が、シベリア帰りの上官のところにやってきて、号令を受けて一斉に闇へと行進して帰っていく映像、とか。中心にいるのが常に凡人で善人であるところの寺尾聡、というのも夢に圧倒される感じを強調しています。(インパクトの塊のような黒澤監督が自分を彼に化体するのはちょっと不思議)

夢

  • 寺尾聰
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ダニエル・シャイナート&ダニエル・クワン監督「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」 3610本目

「スイス・アーミー・マン」で一度呆れているので、何の期待もしないで見ました(笑)。なんか旬だし。で、前作同様、子どもの心を持ち続けてる人たちが作ったと感じる部分も多いけど、どこか汎世界観というか汎次元というか、タイトル通り一瞬はすべてですべては一瞬だ、というような達観した、いにしえの中華思想のようなものも感じさせる作品でした。いつどこで、どんなに運命や次元が分岐しても、妻と夫と娘は出会う。巨大なエネルギーどうしの衝突を避けさせようと周囲はがんばるけど、結局のところ、きちんと向き合って和解するしか先に進む方法はない。たとえ生命のない世界の岩と岩でも。・・・という映画の芯の部分が普遍的なので、この作品は意外と10年後、20年後に日本で見ても面白いかもしれない。

キャストについていうと、ポスターなどからミシェル・ヨーがもっと最初からヒーロー然としているのかと思ったら、普通のこどもがヒーローになるような作品ではもう意外性がないからか、移民の中国系のオバサンがヒーローになるという、転生ものに近い形でしたね。

対する国税庁の監査人ジェイミー・リー・カーティス、最高でした。手がソーセージ。(こういう発想は監督が子どもの心を持ち続けてるとしか言いようがない)もし私が女優に転生したら、この人のこの役がやりたい。(めちゃくちゃ楽しそうなので)

キー・ホイ・クアンもすごく良かったですね。どこから見ても頼りない男が、スーツをびしっと着るとスマートなエリートに見える。

すっとぼけた爺さん「ゴンゴン」を演じたジェームズ・ホンはなんかすごく見覚えがある。いろんな作品に出てたんですね。94歳なのになんと闊達な。

ステファニー・スーについては情報が少ない・・・彼女だけ見てると、園子温の作品でも見てるような気になってしまうのはなぜだろう。

しかし、時空を超えて何度も出会う物語、古今東西すごく増えてる気がして、そこはもう新しくは感じないけど、アメリカにおける中国系のコインランドリー経営者家族が中心に世界が動くところが新しいんだろうな。アメリカで興行収入がすごかったと聞くとちょっと意外。私たちよりもアメリカの人たちのほうが、アジア移民のヒーローにみる意外性が大きくてバカ受けしたのかな、と思うと、ちょっと複雑な気持ち。。。

バーラ・ハルポヴァー 監督「SNS 少女たちの10日間」3609本目

Skypeがかかってくるときの音がトラウマになりそうだ・・・

内容は予想通り。長年、痴漢にもセクハラにもパワハラにもいろいろあってきた方だと思うけど、どんな人にも美しい面とみにくい面があって、自分より下に見ている人に対して平気でみにくい面を見せる人は多い。すごいなぁ、今の言葉を世間にさらされたらこの人どうするんだろう、と何度思ったことか。・・・でもこの映画の結末を見たら、彼らは「自分はちょっとやんちゃしただけで、赦されるべき些細なことだ」と本気で思ってるのかもしれない。ばれたら開き直るだけ。

それにしてもチェコはロリコン大国なんだろうか。それとも世界中こんなもんなのかな。唯一「脱げ」と言ってこなかったまともな男性は、そのまま会話を続けたらお互いの理解を深めて1年後にまじめな恋愛に発展して、その後二人で待ち合わせたところを警察につかまったりしないんだろうか、結局のところ未成年の誘拐と疑われるだろうから。

「日本の女性と結婚したい」という欧米男性のなかには、年齢より若く見える女性を好む人も多くて、この映画で少女たちを脅す男たちとあまり変わらない人もいるのかもしれないな。

悪におぼれる人たちって、良い行動しかしない多くの人たちの想像を超えてくる。どんな悪も(ばれなければ)自分だけは許されると思ってエスカレートする。人間の本質は変わらない。賢くなってとことん自衛しつづけるしかない。とにかくまず、いますぐそこから逃げろ。と言うしかない。

10日間で数千人の男たちが”少女たち”にコンタクトしてきたというけど、氷山の一角なんだろうな。私の家の近所にも、これを読んでくれている方の隣にも多分いるのだ。

SNS-少女たちの10日間-(字幕版)

 

小谷承靖 監督「ピンクレディーの活動大写真」3608本目

アカデミー賞に背を向けるかのように「サザエさん」に続いてピンクレディと昭和にさかのぼってみる。

1976年にデビューしたわずか2年後、1978年12月公開の映画初作品。すでに「ペッパー警部」「SOS」「カルメン77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」「サウスポー」「モンスター」「透明人間」と大ヒットが続いたところ、つまり全盛期。

劇中、あまり脈絡なくステージ衣装で楽曲を歌う場面が次々に出てくるなかで、「サウスポー」ではすごく小さいセパレーツの、ラメだらけのブラとトランクスで野球をするっていうのが、あまりにも露出しすぎでなんか変なかんじ。

それにしても、このとき20歳くらいのミーとケイ、よく声が通るしダンスはキレッキレ。ジャストカウントで動くミーと、食い気味に先走って踊るケイ、懐かしいなぁ。韓流の歌って踊れるアイドルなんて足元にも及ばない巨大アイドルでした。

劇中劇(1)でミーとケイは仲良し姉妹。ミーは妹でOL、ケイは姉で看護師。二人どういうわけか同時に同じ男性に恋をするんだけど、これが田中健なんだな。姉妹げんかのセリフが漫才みたいにベタで、落ちがない・・・。田中邦衛や石立鉄男、秋野大作がギャグドラマをつないでいく感じも昭和のテレビ感が強い。

劇中劇(2)ではピンクの大きな着ぐるみが出てきてサーカスでモンスターと呼ばれます。この曲はマイケル・ジャクソンの「スリラー」のパクリかなと思ったら、スリラーは1982年なのでパクったとすればマイケルのほうか(笑)。このピンクのモンスター、サーカスで芸をやらせようとするのも今ではアウトだし、いろいろと何から何まで突っ込みどころばかり。そいつが本当はモンスターじゃなくてエイリアンで、UFOに乗ったらピンクレディは透明人間になってしまう。もはや三題噺の羅列みたいになっています。テレビだ、これは。ただ、宇宙船だのなんだののセットはけっこうよく作ってあって、昭和の豊かさを感じます。ちゃちくない。

劇中劇(3)はウエスタン。”西部劇の歌姫”ドレス姿かわいい。ヒーローは岡本富士太です。途中からカウガールスタイル、そしてまたドレス。西部の荒くれものの中に、なぜか大林亘彦。なるほど、どうりでとことんデタラメだったんだ・・・(一部演出してたみたいですよ)

だいいちタイトルの「活動大写真」っていうのが、製作者たちの戦前のセンスです。そしてターゲットは子どもなんだろうな。当時映画館かテレビでこれを見てたら、くだらないけど楽しいって思ったんじゃないかと思います。昭和のアイドル文化をフィルムに残した功績は認めてあげたい・・・。