映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

トッド・フィールド監督「TAR」3694本目

完全に出遅れた。やっと見ます。

これは実話ベースなのか?どうも違うみたい。女性指揮者で高名な人っているのかな。ステージで司会者と話すときは「我々女性指揮者」って言ってるけど、カプラン氏との会食のときは、「女性指揮者ではなく、我々と同性の若者のための奨学金だ」と言う箇所がある。字幕では「男性の」、セリフは「No, our sex」となってる。だからTARは本当は女性が女性を愛する”レズビアン”というより性同一性障害で、本質的な性別は男だけど、表では女性としてふるまってる、ってことか。複雑だ。

この映画を作った意図は、男性のレジェンド指揮者たちの過去の暴虐を、女性が演じることで別の視点で振り返ってみるってことなのかな。TARを女性と見ると「ケイト・ブランシェットのすごい演技」、男性と見ると「男性指揮者あるある」?

素人のロックバンドでもボーカル兼ギター兼作曲とかだと調子に乗って、ファンの女の子は全員自分のものだと思ったりすることはよくある。クラシック音楽の長い歴史や大勢のプロのオーケストラを率いる指揮者なら、重圧もすごいだろうし、開き直るためのパワーも必要だろう。自分は神だ。くらいの。

そのリディア・ターの優雅さと傲慢。絶対に友達になりたくないけど見とれてしまう。狂った天才って美しい。オリジナリティとか天衣無縫の子どものような発想のような、音楽で求められるものを持っているけど、社会性や常識がないまま活躍してる人も多いのかもしれない。傲慢というより幼児性なのかも。誰からもちゃんと叱ってもらえないままちやほやされた大きな子ども。自殺した女性の幻にずいぶん悩まされてるようだし、態度ほど本当は図太い人ではなさそうだ。

「マッサージ」を頼みたくて行った場所は女性たちが”金魚鉢”(飾り窓みたいな)の中で展示されてる場所だった。「お嬢さん、」と声をかけてきた男性が彼女をレズビアンだと見抜いて売春宿を案内するのは、なかなか筋としては難しい気がする。金魚鉢の女性たちはタイマッサージの施術師のかっこうをして、マッサージの道具を持ってたし。だからそこは本当にタイマッサージの店だと思うけど、階段状の座席に展示されてる女性たちの中から1人を選ぶのは、オーケストラの中からタイプの女の子を選んできた自分自身の行いだ!と、赤い髪の亡くなった女性の亡霊が語りかけてきた、かもね。

最後の「ゲーム音楽」のオーケストラ演奏、「ここからが本当の始まりである」っていう演出みたいでみょうに元気が出る。「ブルー・ジャスミン」でも、八方ふさがりの主人公は少なくとも前を向いて、今を彼女なりに一生懸命生きてた。ケイト・ブランシェットって、なんか諦めないキャラクターなんですよね。自業自得で何もかも失って、でも今あるもので必死に暮らしてるから暗くならない。

この映画は、男性指揮者の暴虐を糾弾しているとしたら、少し手ぬるい。「ラストナイト・イン・ソーホー」とか「プロミシング・ヤング・ウーマン」と似た狙いで、加害者を女性に変えた設定の作品・・・と考えるには、主役に魅力がありすぎる。だから結局、映画そのものの示すところより、ケイト・ブランシェットの魅力に目が行くのかもな。でも、ハリウッドがもうストレートなセクハラ糾弾の次の段階に行ってることがますます実感されて、とても興味深い作品だったっていう気がします。