映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ビクトル・エリセ監督「瞳をとじて」3752本目

「ミツバチのささやき」「エル・スール」をVHSで探し出して見たのがもう11年も前。この監督の作品は、じゃあアマプラで再見しよう、ということができない。今でも昔の作品をなかなか見る機会のない監督です。

この新作映画の印象は、なんとなく、11年前の印象を思い出してみると、けっこう違う。VHSで見たからかもしれないけど、映像が美しくてストーリーはあまりはっきりしない(あるいは私にはわからない)映画だったような記憶があります。でもこの新作には、もっと言いたいことがあって、訴えてくる。失われた映画のかけらを強く追い求める老監督。やっと見つかったその「かけら」は、失われたピースを簡単に埋めてくれるものではなかった。でも何かが、まぶたの裏に浮かび上がってくる・・・。そんな思いを受け止めた気がします。

ペドロ・アルモドバル監督「ペイン・アンド・グローリー」にも、大昔に失われた映画を取り戻そうとする老監督が出てくる。解釈も表現も違うので似ているとは全然思わなかったし、その思いの強さ、深さ、ありようも違う。でも、同じなのかもしれない。(この二人は親子ほど世代が違うような印象だけど、じつは9歳しか違わない)

監督と近所の仲間が暮らす海辺のトレーラーハウス+αみたいな居住地が最高に好きだなぁ。目の前が海。日よけで覆っただけのアウトドアの仕事場。大きな犬、釣った魚を調理してワインを持ち寄ってギターを弾いて語り合う夜。

監督自身は車を持たないので、海辺の町からバスで都会へ移動する。何度も「お金がない」という場面がある。昔からこの監督に心酔していた人たちなら胸が痛むかもしれない。

で、失われた映画の結末なのですが、<ネタバレですみません>なんかすごくベタではあります。チャイナの表現もベタだし、出会って死ぬことも。でもそのやっと会えたスペイン・中国の少女の表情、まなざしが、この映画のものすごく重要な部分を占めています。泣きべその少女とフリオが画面いっぱいにこっちを見つめる。それを見ている”失われたピース”が目を閉じる。そこに何か深い交感が生じている。監督が感動する場面ではなくて、彼はその交感を演出しただけ。

監督らしさがあるのかどうかは、残念なことに私にはわからなかったけど、すごくいい映画でした。

ビクトル・エリセ監督「ミツバチのささやき」3751本目

(見たのは2013/6/26、VHSレンタル。なぜかこのブログに書いてなかったので記録しておきます。)  

1度見ても良さがわからなかったので、解説や他の人の感想を読んだ後もう一度見ました。
そうやってみないとわからない映画が、私の場合三分の一くらいあります。

最初は、母の手紙が中心のストーリーなのか(失われた家族の謎、とか)?父のミツバチが重要なのか(全滅してその後過程没落とか)、あるいは小さい女の子たちの日常がテーマなのか(それにしてはタイトルのミツバチとふれあう場面がないな)とか考えて眺めていました。
子どもたちの出番は多いけど、勝ち気なイザベルと違ってアナのほうはいつも「つれてこられた子ども」のような顔(大人が可愛いと感じる表情かもね)をしていて、自分でどかどか歩いて冒険していく目じゃないので、彼女たちが中心だというインパクトがありません。でも、アナのこのぼんやりした感じは、夢遊病のようにさまよい歩くほうの女の子っていうイメージを表してるのかな。

全場面の画面がつねに、名画のように美しく、あどけない少女たちに対するやさしさに満ちています。たぶん、「美しさ」の優先度が「ストーリーを伝えること」より高いんですね。この映画はドラマじゃなくて絵本なんだな。

この映画のテーマをひとことで表すと「なぜ“フランケンシュタイン”は殺されなければならなかったの?」でしょうか。

アキ・カウリスマキ監督「ラ・ヴィ・ド・ボエーム」3750本目

わかりやすい映画だった、カウリスマキ監督にしては。

「ラ・ボエーム」は権八と同系列のカフェ、じゃなくて、プッチーニの有名なオペラで、ボヘミアンな男女のうち薄幸のミミが病死するのは既知なので、「ロミオとジュリエット」のようにこの筋をベースに見れば、監督がどのへんを味付けしたかがわかりやすい。

マッティ・ペロンパーの哀愁が際立っていますね、ほかの作品と比べて。この人の目立つ口ひげは、赤いズボン・尖った靴と並んで、私の中の「見栄っ張り男見きわめ三大ポイント」となっていて(根拠なくてすみません、なんとなくです)、プライド高く肝っ玉ちっちゃく、ビッグマウスでいつも貧乏している愛すべき男の象徴のひとつなのですが、この映画の彼はまさにその哀愁のかたまりのようです。ミミもそんな彼が愛しくてたまらないのでしょう。

それにしてもマッティ・ペロンパー、いつもの彼の声のようなんだけど、もしかしてフランス語が堪能?よく見るとジャンピエール・レオだけじゃなくてルイ・マル(!)まで登場していて、これは監督のフランス映画の歴史に対するリスペクトとかオマージュなんでしょうか。それぞれ、なかなか良い演技をしてるなと思います。

「雪の降る街を」、ある世代以上の日本人なら聞けばすぐわかりますが、これって「スキヤキ」みたいに世界的にヒットしたんですか?そんな情報はネットでは見つからないので不思議。これが邦画ならベタだけど、「PERFECT DAYS」劇中歌なら石川さゆりが演歌を歌ってもクールなのと同様、フランスが舞台のフィンランド映画だと思えば面白く感じます。歌唱がまるでスナックでちょっと歌のうまい客が歌ってるみたいにさりげない、フォーク調なのもよいのではないでしょうか。

「レニングラード・カウボーイズ」を最初に見てしまった観客としては、監督がいかにさまざまなテイストの面白い作品を作り続けてきたか実感できて、とてもよかったです。

 

ラヴィ・ド・ボエーム (字幕版)

ラヴィ・ド・ボエーム (字幕版)

  • マッティ・ペロンパー
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アキ・カウリスマキ監督「愛しのタチアナ」3749本目

わずか62分の作品だけど、たっぷりとカウリスマキ監督の世界を味わえます。

いつものマッティ・ペロンパー(アル中)とカティ・オウティネン(エストニアからの旅行者)に加えて、レニングラード・カウボーイズのマト・ヴァルトネン(コーヒー中毒の仕立て屋、母親を納戸に閉じ込めてプチ家出中)と大きなロシア女性キルシ・テュッキュライネンが加わります。タリンへ渡る船の乗り場まで、女たちは男たちの車に乗せてもらうんだけど、途中でつごう3泊?。どんな田舎町から移動してるのか、と思うけど、これもまた「カラマリ・ユニオン」みたいに、実際は徒歩3時間くらいの距離だったりするのかもしれない。

男たちも女たちもあんまりパッとしないこの雰囲気、なぜか「ファーゴ」のスティーヴ・ブシェミとウィリアム・H・メイシーが「オー、イェー」ばっかり言う女の子たちをナンパした場面を思い出してしまう。北欧だとこうなるのか。男たちはイキがってるけど、女たちからは「あの間抜け面の男たち」「面白い顔の人たち」と思われてる。(でも女たちは平気で彼らの部屋に着いていく)

全然愛があるようには見えなかったマッティとカティは、彼女の家で一緒に暮らしましたとさ。そしてマトは家で(いつの間にか納戸から抜け出していた)母のいる部屋でミシンを踏み、ひとり帰りのフェリーに乗り(時系列がこの辺からわからなくなる)・・・・かと思ったら、4人が乗った車がカフェに突っ込んだ、と思ったらそれはおそらくマトの妄想(帰りたくなかったから、事故でも起これば残れたと思ったのかな)で、帰宅したマトはやはりミシンをふみ母親はコーヒーを淹れる。

結局、国境を越えられた男と超えられなかった男のお話なのかな。フェリーには乗れたのにね。

港までの道のりは悪い夢のように長く遠く、帰りはあっという間で、もう家だ。そういうのがフィンランドの人の感覚なのかもしれません。

愛しのタチアナ (字幕版)

愛しのタチアナ (字幕版)

  • カティ・オウティネン
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原田眞人 監督「魍魎の匣」3748本目

U-NEXTに追加されていたので見てみました。勇気を出して、がんばって原作を読んだのは7年前。おどろおどろしく、独特の世界観が徹底していて、かなりはまって読んだ記憶があります。

この映画はロケ地が美しい。上海なんですって?みごとなロケ地です。昭和初期の東京よりもムードがあるんじゃないか?この映像を見ているだけで、見て良かったと思えます。こんなに昔の木造建築が残ってるなんてすごいなぁ。今もこのままあるんだろうか。

しかし阿部寛が・・・今ならもれなく「VIVANT」に見えてくるし、昔なら「TRICK」に見えただろう・・・なぜなら彼はいつも阿部寛だから。(決して悪い意味ではない)

ストーリーはざっくり覚えているので、猟奇的な部分は想像よりひどくはなくて、むしろ、美しい映像にしたなぁという印象です。原作があの雰囲気なので、あっさり作ったなというくらい。なぜこの犯罪を行ったか?とかどうやって?という部分は、一般常識でりかいできなくても、その世界の人のことだと思ってずぶずぶに浸ったほうが楽しめると思います。。。

もっと妖しくすることもできたと思うのですが、この作品は一般受けするには特殊すぎて、マニアの高評価を期待するにはふつうのミステリーっぽいので、全体的な評点は低めなのかもしれません。私はきらいじゃないですけどね・・・。

魍魎の匣

魍魎の匣

  • 堤真一
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アキ・カウリスマキ監督「ハムレット・ゴーズ・ビジネス」3747本目

カティ・オウティネンさん(オフィーリア)が、名画”オフィリア(の川流れ)”のポーズで浴槽に沈む・・・。

この作品のハムレットはなかなか悪いやつなんだけど、その友達はもっと悪くて、いい奴なんてあんまりいない映画でした。今世紀になってから流行している、どんでん返しに次ぐどんでん返し。多分これはハムレットのパロディ映画なんだと思う。意外と面白かったけど、あまりにみんな仏頂面なので、ギャグだと気づきにくい・・・。

ハムレット・ゴーズ・ビジネス (字幕版)

ハムレット・ゴーズ・ビジネス (字幕版)

  • ピルッカ=ペッカ・ペテリウス
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アキ・カウリスマキ監督「カラマリ・ユニオン」3746本目

カラマリってフィンランド語でもイカのことなんだ。このフランクの群れはフィンランドのイカ漁組合、ってことかな。彼らは現状の生活に行き詰まりを感じていて、町の反対側にある「エイラ」という場所を目指すけど、なぜか次々に殺されていく。

1回流して見たらまるで意味がわからなかったけど、2回目を見る前に、ふと思った。そういえば「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」が作られた1989年はまだソ連は崩壊していなくてサンクトペテルブルクはレニングラードと呼ばれてた。そんな中、監督はなぜあえてヘルシンキじゃなくて「レニングラード・・カウボーイズ」の映画を作ったのか。なぜソ連の合唱隊とコラボする必要があったのか。(いつも書いてるけど、フィンランドはマイケル・モンロー率いるハノイ・ロックスが国民的ヘビメタバンドという国なので、ネーミングに関しては何ら不思議はない)

そんなことを考えながら見ていたら、これけっこう怖い映画かも、と思った。意味もなく仲間の誰かや行きずりの誰かに一人ずつ殺されるフランク。みんな同じ名前なのは、誰もがこのフランクになりうるからかな。仲間たちは一瞬驚愕するけど、殺人者を追うことももしないし、軽い交通事故かなにかのようにフランクを置き去りにして先を行く。

いまとても戦闘的になっているお隣の国と、フィンランドは国境を1300キロも接している。この映画がつくられた1985年に、攻撃をいちばん恐れてたのはウクライナじゃなくてフィンランドの人たちだったかも。

この映画はカウボーイズがアメリカに行く数年前で、大勢によるパラダイスへの行軍・西側の音楽への傾倒・死の気配を、いまどきの3人組の漫才グループのコントみたいにシュールにまとめています。

もう1つシュールな点に気づきました。フランクたちの行軍は「カリオ」から「エイラ」を目指すんだけど、Google Mapで調べるとこの2つの町は車で11分という近さ。「エイラ」はフィンランド語でパラダイスを意味する架空の約束の地かしら、など考えていたので拍子抜けです。歩いたって数時間で着くので、途中で野宿をするのも、3日3晩飲まず食わずで歩くのも、脱落者を出すのも難しい。カイラは労働者の歓楽街、エイラは別荘地として知られているらしい。東京でいえば蒲田から田園調布くらいかな。最後、フランクたちはエイラをも離れて対岸のエストニアのタリンに向かうのですが、これはありそうな設定。私もフィンランドの短い旅行のなかで、「フェリーでタリンに日帰り(片道3時間)」ツアーに参加したくらいなんで。(といってもイカダみたいな船では遭難の恐れが)

もう一ついうと、フランクたちが根城にしていた「カリオ」は左派が集まるところでもあるとのこと。この「左派」はお隣の国寄りという意味ではないというか、真逆のような気もします。かといってアメリカへ渡ったカウボーイズはかの地で受け入れられることはなく、期待と現実のギャップの大きさを痛感する。複雑だな、フィンランド。

初期の作品をじっくり見ると、監督の問題意識や方向性など、のちの作品を見て不思議に思ったことの糸口がつかめてきて、すごく面白いですね。。。

カラマリ・ユニオン (字幕版)

カラマリ・ユニオン (字幕版)

  • マッティ・ペロンパー
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