映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

降旗康男監督「居酒屋兆治」179本目

1983年作品。
わたしの分類では「日本のむかしの映画」のほうに入ります。

付き合っていた彼女に金持ちとの縁談が持ち上がったと聞いて身を引き、首切りがやりたくないので総務部への異動を断り、見合いで結婚した女と居酒屋を始めた。昔の彼女は彼のことが忘れられず、嫁いだ先で自分の不始末で火事を起こし・・・

高倉健さんはいつも通り、不器用で男前。大原麗子は生ける屍というか、幽霊のように彼への思いを持ち続けている。この二人の思いが純粋で美しいんだけど、・・・あえて、がんばってこの状況を客観的に見てみる。

総務のイヤな仕事をやってる人たちは、平気なわけじゃない。誰かが我慢して、会社をつぶさないように、社員全員の家族が路頭に迷わないようにがんばってる。昔の男が忘れられなくても、いま優しくしてくれている人にせめて感謝して、気持ちを切り替えて生きていくこともときには大事。これが「マディソン郡の橋」だったら、二人はちゃんと結ばれて、かつ一生その思いを胸にしまって前向きに生きていくっていう話になるんだけど、それと比べてこの映画の主人公たちは自分たちの思いに囚われて、いま自分を助けてくれている人たちへの感謝よりそっちが上になってしまう。これってつまり、自分の思いをないものとして、まわりに気を使って生きている日本人のロマンってことなのかな。それとも、自分を主人公に映して不器用さを肯定したいのかな。

でも、それって多分、自分の過去にふんぎりがついてないことのほうが原因です。好きな人には金持ちになってほしくて、見合い相手は自分で十分・・・なんて、理想とした女性を利するために自分だけじゃなくて無関係の他人を巻き込んでる。幸せになるには金が要る、という考えもいじけてる。「自分が我慢すればいい」って考えるのは、じつは一番楽をすることで、本当に好きな人といっしょに苦労することを選ぶ勇気がないのは、間違いだよ。

演歌的な世界観をきわめた、究極的な日本映画なのです。結末は、彼の「これから」を描いてほしかったなぁ。
以上。