映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

ロイ・アンダーソン監督「ホモ・サピエンスの涙」3063本目

これもずっと見たかった。でも映画館でこの監督の作品を見る自分が、間が保てる自信はない。何で見たいんだろう、好きかと言われるとよくわからないのに。

で感想を言いますと、画面は独特のグレーで覆われていて、前にも書いたけどハンマースホイという画家の絵みたいなんだよな。今回も、常識よりちょっとだけおっちょこちょいの人たちが演じるショート・ショートのコレクションだ。登場人物の顔は今回も、墓から出てきたみたいに白い。

理髪店で働く女性の視点で語られてるのかなと思ったけど、人里離れた場所でも「男の人を見た」という。「ベルリン天使の詩」の天使みたいな視点なのか。

信仰心を失って苦悩する牧師に、磔にされる夢を見るくらい深い信仰心があるところがおかしかったり。「ああ、どうしよう」という大きなため息を抱えた人たちが、入れ代わり立ち代わり登場する。

いつもこの壮大な風景を巨大なスタジオ内にセットを組んで撮ると聞いたけど、そこまで手間をかけるのは、電線とか雑音なしに、果てしなく広がる美しいグレーの濃淡の背景が必要だからなんだろうな。映画は監督にとって、絵画でなければならない。多分。 

原題は読めないけど英語のタイトルは「Endlessness」無限であること、か。全然ホモサピエンスでも涙でもなかった。「さよなら人類」は「A Pigeon Sat on a Branch Reflecting on Existence」枝の上で実存について思索する鳩?…けっこう観念的なんだな。邦題のほうがとっつきやすいけど、難しい原題(を直訳したと思われる英題)のほうが、大掛かりなセットにふさわしい気がする。美術展を見に行ったというつもりで見るべき作品なのかもね。

2回見ると、同じ空に同じ鳥の群れがV字型に飛び去って行く背景が何度も出てくるあたり、確かにエンドレスでした。

ホモ・サピエンスの涙(字幕版)

 

黒崎博監督「セカンドバージン」3062本目

史上最低じゃないかな、この作品のKINENOTEでの平均評点。
「太陽の子」が映画版になると聞いて、この監督が過去に何を作ったか見てたらこの作品もありました。「火の魚」はとても良かったのにな。NHKはドラマの続編を映画にするのをやめて、映画版を作る前提でドラマを制作する「スパイの妻」方式を始めたので、これからはその方式が増えるのかも。あたまいい、という気もするけど、どういう建付けになってるのか、いつか誰かにその背景というか内情を教えてほしいなぁ。

さて。この作品はドラマをドキドキしながら見たけど、映画版は突然舞台が東南アジア?と引いた記憶があります。鈴木京香が綺麗で色っぽくて、この年下の相手の男は誰だ?と騒然となったし、その後の長谷川博己の躍進はすごかった。この頃はまだヒョロヒョロしてるけど、どこかヤマっ気と色気があって、彼を見つけてきた人はすごいなぁと思います。

若手の金融界の寵児が違法な取引に手を出して、挽回を焦って裏の世界に流れていく、という話は、今考えるとむしろ妥当過ぎるくらいありそうな話だ。そこまではいいんだけど、映画114分間、テレビの多分5分くらいのラストシーンをひたすら引き延ばした感じでした。実際、続編の作りようがない筋だったのに無理やり作ったような感じですね。実験としてはあまり成功とはいえなかった…。

 「太陽の子」はテレビを見たから映画は見なくていいかな…。

 

ローレンス・カスダン 監督「殺したいほどアイ・ラブ・ユー」3061本目

お気に入りのケヴィン・クラインが出てるくだらないブラック・コメディだと思って適当に見てたら、リヴァー・フェニックスが出てる!ケヴィン・クライン演じる、ゴジラ並みに頑丈な浮気夫の殺害計画にどっぷり関わる役なんだけど、彼が殺しあぐねて雇った弱気で頭の悪い殺し屋が…キアヌ・リーヴスじゃないですか。いい時代だ…。

内容は予想通り、いや予想以上に軽~いコメディで、頭が疲れたときに何も考えずに見てもファッファッと笑えてよかったです。こういうジャンルの映画嫌いじゃないです。だからケヴィン・クラインのウドの大木的な存在感がやっぱり好き…。

 

 

クシシュトフ・キェシロフスキ 監督「愛に関する短いフィルム」3060本目

以前の勤め先に外語大のポーランド語学科を出た同僚がいて、なぜポーランド語を専攻したんだろう、まだ17-8の子どもの時点で、と思ったことがある。すでに「惑星ソラリス」やキェシロフスキ監督の映画に出会って、人生変えられたのかな。…と思うくらい(つまり人生を変えるかもしれないくらい)この人の映画は深いんだよなぁ。

さてこの作品も、「愛」といってもラブラブハッピーなわけはなくて、「赤の愛」を思わせるストーカーの話だった。すんごく粘着質なので、キェシロフスキ監督は。どこか冷めてて第三者的視点があるのに膠着する。

この作品ではストーキングされる女性が彼を受け入れてみようと思う。実験みたいに、もて遊ぶみたいに。昔は”大好きな彼をまちぶせ”とかが純愛のひとつのパターンだったのが、今は「キモい!」の一言で切り捨てられるようになった。愛ってどこまでが愛なんだろう…。

そして”選手交代”が起こる。自殺未遂に及んだ彼のことが気になってたまらなくなり、双眼鏡を覗き、彼のことを聞いて回り、やっと部屋に戻った彼を見舞い、彼の望遠鏡で自分の部屋を覗いてみる。彼女が自室に彼が訪れる想像をするとき、彼の気持ちに共感している。…これを現実として描かないところがまた、深いというか監督らしいというか。死刑は実行され、結ばれる場面は空想として描かれるという悲観的世界観。

そもそも、友人は出征中で、友人が覗いていたのを引き継いで自分も彼女の部屋を覗くようになったという迂遠さ。すべてを知りたいと熱く思うことは愛なのだろうけど、同じ思いをしなければ理解はされない。

でも彼女がとっかえひっかえ男を連れ込んでいたことは「愛」ではない。彼女はストーカーされ、自殺未遂をされたことで愛を知ったともいえる。

迂遠なんだけど、考えて考えて考え抜く男なんだキェシロフスキ監督は。

ということで、この作品もとてもみごたえがあって面白かったです。

 

クシシュトフ・キェシロフスキ 監督「殺人に関する短いフィルム」3059本目

しょっぱなが怖い。愛猫と暮らす私にはキツイ映像が続いて、キェシロフスキ監督ってこんなの作る人だったっけ?と思いながら、しばらく殺伐とした映像を見ていると、3人の登場人物たちが、最も望ましくない形で出会う。”殺人者”が本音を語り始めて、人間らしい感情が発露し、やっと少し共感が持てるようになるのは、映画が終わりかけたころだ。その生々しさが、それまでの冷酷さへの理解と、そのあとに起こる非情な「死」を切ない気持ちで見守ることにつながる。ああ、やっぱりキェシロフスキ監督だ。

2度目に見ると、もう怖くない。最初から、つめたいような人たちの心の中に、見えないけど熱いものがある、という気持ちで見えてくる。殺人犯の彼は、小さい女の子たちを前にして、一瞬すごく爽やかな笑顔を見せる。まったく邪気のない、いい笑顔。最後の場面の彼も邪気のない青年になっている。なりたてのまっすぐな弁護士の青年は、彼の弁護に、刑の執行に際して、感情の大きな動きを経験し、理想と現実を見る。

ものすごく単純化した言い方をしてみると、やさしい監督の撮る非情な風景には感傷がない。人間の弱さをそのままそれとして受け入れられる人(「やさしい監督」)には、死や暴力に感情を盛り込む必要がない。日本のテレビドラマやそれを映画化したものには、悪意や敵意を、”かわいそう””悲しい””ひどい”という感情を引き起こす記号のように安易に使うものが多くて、こんなのばっかり見てたらボタンを押したら泣くような人間ばかりできてしまいそうで怖い。いや、どの国も同じかもしれないけど、感情の単純化を志向する人たちは力を持とうとする傾向もあって、目につく場所にいることが多い。私は、普通では見えづらいこういう”心のひだ”を作品にして見せてくれるものを見たい。

何度も見直すたびに、気づくことがある作品。自分自身の感情と向き合って、逃げずに冷静に観察することから生まれるんじゃないかと思う、こういう”神の視点”は。

 

テオ・アンゲロプロス監督「霧の中の風景」3058本目

これもずーーっと見たかった。久々にTSUTAYA店舗に行ったので希少DVDをレンタル。

アンゲロプロス監督作品は、大人が出てくるイメージがあったので、あれ?ヴィクトル・エリセ?(それは「ミツバチのささやき」)

いろんな人がいる。伯父さんは悪い人じゃないけどまるであてにならず、旅芸人は乗せてくれただけで友達になれたのはオレステスだけ。悪いトラック運転手。それに味を占めて別の男を誘うヴーラ。痛かったし嫌だったのに。一発の弾丸で2人を射止めることはおそらく無理だとはいえ、この子たちが霧の中たどりついた対岸に、想像のあの風景がちょうど見えるわけはないのだ。この子たちの結末は決して明るく描かれていないけど、もしその後生き延びていたとしたら、ヴーラが売春を続けて弟を養いながら、男たちに「ドイツのお父さんに会いに行くの」と言い続けて苦笑される未来くらいしか想像できない。アルバニアで少し年をとっていっぱしの娼婦になるか、どこか親切な食べ物やの世話にでもなりながら大きくなるかだ。

だいいちギリシャからドイツは、地図を見てみると笑ってしまうくらい遠い。ギリシャからはアルバニア、モンテネグロ、ボスニアヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、オーストリアを経てやっとドイツだ。今は飛行機でテサロニケからミュンヘンまで2時間半もあれば着くけど、列車なら一昼夜かな…。どんな方向で向かっても、川の向こうがドイツっていう国境はない(←いちいち調べて興をそぐようなことをするな、私)。

やけに感傷的な、日本の1980年くらいのやたらヌードの出てくる映画みたいな音楽がなんか変な感じだった。

でも美しい映画だったのだ。幼い姉弟は安寿と厨子王だ。あまりにも無知で無垢。第二次大戦前の、リリアン・ギッシュが出てた映画みたいだ。ここまで純粋をつきつめようとする映画は、アメリカや日本からはもうなかなか出てこない。 

そもそも、なぜこの子たちは家を出たのだ。母はどうしたのだ?と思って最初から見直してみるけど、なんのヒントもない。母の生死すらよくわからないけど、どうしても出たいような家だったのだ。旅芸人も食い詰めて衣装を売り始める、子どもたちは家を出る、そんな時代のギリシャを描いた寓話だったのでした。

DVD借りると特典映像が付いてるのが良いですね、VODと違って。池澤直樹の監督インタビューが見られてすごくよかったです。

霧の中の風景 [DVD]

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ギウリア・ブラザール 監督「ホドロフスキーのサイコマジック・ストーリー 」3057本目

ホドロフスキーは原作だけなのに、タイトルに彼の名前を入れれば日本でもそれなりに売れるんだろうか。ネームバリュー‥‥

2019年に彼本人が監督した「ホドロフスキーのサイコマジック」っていう作品もあるんだけど、どう違うのか?TSUTAYAでこれをレンタルして、帰ってから調べてみたら、両方とも彼が提唱する”サイコマジック”をテーマにしてるけど、こっちはそれをモチーフにしたフィクション、あっちはノンフィクション(風)にサイコマジックそのものを取り上げたもの、ではないかと思われます。

この作品で、リアという若い女性はなぜか高圧的なヴィクトルという男に支配されています。何でも彼の言いなり、身ごもった子も彼の知り合いの手で堕胎させられる。そのあたりからリアは精神に支障きたしていく…。ある意味殺人だもん、しかも「おろせ」というだけの男と違って、自分の意思で病院へ行って手術着に着替えたりしてるわけだから、罪の意識が完全に消えるのは難しいだろう。ホドロフスキー先生のカウンセリングを受けても彼女が回復することはなく、せっかく距離を置いた男とも復活してしまって、むしろ精神の混迷は深まっていく。男のほうも、飲んだくれてバーで女をひっかけたりしていても、実はさいなまれ続けていた。

彼女の叔母の”治療”のほうがサイコマジックなんじゃないか?妖術のようだけど、深層心理を解放して新しい刷り込みを行うのは現代医療っぽい。子供だましのようだけど、弱ってる心には効くのかも。そもそも理屈じゃない痛みをそれで取り除いてもらえるならいいじゃないか。…彼女の最後のリベンジが、痛快に思えてしまうのでした。

この作品、むしろポランスキーに映画化してほしかったかも。原作ホドロフスキー、監督ポランスキーってどんな怖くて気色悪い名作ができるだろう…!!