映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

クシシュトフ・キェシロフスキ 監督「殺人に関する短いフィルム」3059本目

しょっぱなが怖い。愛猫と暮らす私にはキツイ映像が続いて、キェシロフスキ監督ってこんなの作る人だったっけ?と思いながら、しばらく殺伐とした映像を見ていると、3人の登場人物たちが、最も望ましくない形で出会う。”殺人者”が本音を語り始めて、人間らしい感情が発露し、やっと少し共感が持てるようになるのは、映画が終わりかけたころだ。その生々しさが、それまでの冷酷さへの理解と、そのあとに起こる非情な「死」を切ない気持ちで見守ることにつながる。ああ、やっぱりキェシロフスキ監督だ。

2度目に見ると、もう怖くない。最初から、つめたいような人たちの心の中に、見えないけど熱いものがある、という気持ちで見えてくる。殺人犯の彼は、小さい女の子たちを前にして、一瞬すごく爽やかな笑顔を見せる。まったく邪気のない、いい笑顔。最後の場面の彼も邪気のない青年になっている。なりたてのまっすぐな弁護士の青年は、彼の弁護に、刑の執行に際して、感情の大きな動きを経験し、理想と現実を見る。

ものすごく単純化した言い方をしてみると、やさしい監督の撮る非情な風景には感傷がない。人間の弱さをそのままそれとして受け入れられる人(「やさしい監督」)には、死や暴力に感情を盛り込む必要がない。日本のテレビドラマやそれを映画化したものには、悪意や敵意を、”かわいそう””悲しい””ひどい”という感情を引き起こす記号のように安易に使うものが多くて、こんなのばっかり見てたらボタンを押したら泣くような人間ばかりできてしまいそうで怖い。いや、どの国も同じかもしれないけど、感情の単純化を志向する人たちは力を持とうとする傾向もあって、目につく場所にいることが多い。私は、普通では見えづらいこういう”心のひだ”を作品にして見せてくれるものを見たい。

何度も見直すたびに、気づくことがある作品。自分自身の感情と向き合って、逃げずに冷静に観察することから生まれるんじゃないかと思う、こういう”神の視点”は。