映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

石川淳一 監督「変な家」3844本目

変なもの読みたさで、つい原作はAudibleで聴いてしまったのですが、映画版はほぼ同じ内容でしたね。雨穴さんが冒頭で「第5章」って言ってたけど、あまり追加はなかった。とはいえ、問題の家が立体化してみると、ジャパニーズ・ホラーっぽく真っ暗で汚れた感じに作ってあって、雨穴ワールドになじめない人でもその雰囲気でちょっと怖がってくれそうです。

そもそも、テレ東の深夜番組で雨穴原作のショートドラマをやってたのが割と面白かったんですよね。原作者本人が、黒い全身タイツで変な踊りを踊るあたりが、あまりにも珍妙で…。

ホラーは、どんなに筋がムリムリでも、怖がらせたら勝ちです。原作はそれなりに背筋を涼しくしながら聴いたけど、映画が最初の人はどうなんだろうなぁ。映画で追加できる重要なファクターの一つが俳優で、間宮祥太郎ってシリアスな演技がこんなにできるようになったんだなー、佐藤二朗もちょっと得体が知れない感じがわりと良いし、いつもあどけない川栄李奈が暗い役をすると、いたいけな女の子って感じで、それも悪くない。もう何でもやる斉藤由貴、まじめに怖い滝本美織、総じて役者さんたちは良かったと思います。

イヴ・ブランドスタイン監督「ジョン・レノン 失われた週末」3843本目

中国系アメリカ人メイ・パンの生家が「OKランドリー」って、”エブエブ”を思い出しますね。で、失われた週末って、一般大衆がジョンの動静を知ることを失われたってことだな。アガサ・クリスティ失踪事件みたいにマスコミから「失踪」した、という。

割と最近、別のドキュメンタリー番組でメイ・パンのインタビューを見たので、この映画も見たような気になってたけど、全然違う作りだ。

ジョンは一生、少年のような心を持ち続けた人で、死ぬまで母を必要としていたことや、ヨーコがずっとジョンの強い母だったことは、ビートルズよりソロのアルバムのほうをたくさん持っている私のような者には既知だ。でもヨーコがどんな”母”だったかは全然わからなかった。この映画で語られていることを見ると、毒親とまではいかないけど、かなり束縛の強い母だったんだなと思う。母だから、気に入った女の子を彼にあてがい、事情が変わると別れさせる。ヨーコは悪魔的な女だったというより、ジョンを自分のものとして守り抜こうとした、よくいる子離れできない母だ。妻じゃなくて母。だからジョンは絶対に彼女を捨てられなかった。と思う。

メイといるときの無邪気なジョンは、母親コンプレックスがなかったら?という少年ジョンの表情だ。この中で心身ともに健康そうなのはメイだけで、ジョンは普通の幸せを手に入れるのが難しい状態が長く続いてしまう人で、ヨーコは愛情と思い込みの強い人物。ひとり無邪気な子どもだったメイは、この夫婦にabuseされたようにも見える。だって、結局のところ、ジョンはぜったいにヨーコから完全に離れることはできなかったと思うから。

「ロックン・ロール」は歴史に残る”青春のロックンロール大名盤”だし、この頃に作られたソロアルバムはどれも聴きこんだ。ジュリアン・レノンが1980年代に来日公演をやったときは聞きに行った。だからメイと一緒だった時代のジョンのきらめきを私はこよなく愛してる。メイは一緒にいる人たちをハッピーにする人だ。でもジョンの深い孤独を包み込めるものは老若男女、動物の種類を問わず、ヨーコしかいなかったじゃないか、とも思う。それが彼の幸せなのか、何が幸せなのか、わからないけど。

 

エリオ・エスパーニャ 監督「バンクシー 抗うものたちのアート革命」3842本目

「バンクシー展」をうたった多数の展覧会と同じように、バンクシーを取り上げたドキュメンタリーは他にもあるけど(招待を暴こうとするやつ)、これは本人に近い人たちが、彼を守りつつも、アーティストとしてのバンクシーがグラフィティの世界にどんな風に現れ、何をしながら、何をきっかけに現在の位置に至ったか、順を追って語る、とても良心的な作品でした。

つまりこれを見ると、「風船と少女」が、作者の意図と真逆に700万ドルで取引される世界が、いかにおかしいかがよくわかる。副題の「抗うものたちのアート」というのも適切だなと思います。

バンクシーのアートって本物を見たことがないんだけど…本物を見に、バンクシー非公認の展覧会に行くのもなぁ。彼のアートは、絵画の存在自体にメッセージがあるので、「知る」ことがアートを味わうことになるような気もする。どんな人が作ってるんだろう?と最初は思ったけど、今はこうやって作品の変遷などを見てきて、姿かたちが何であろうと、どういう気持ちでどんなアートを作っている人なのかは、少しだけど、もう知っているような感覚もあります。面白いし、カッコいい。こういう尖り方を、できるもんならしてみたい。

そもそもアートって何だろう。と考えさせる人です。アートはメッセージなのであれば、私が絵画教室に通っても、伝えたいことが何もないからすぐ描けなくなってしまったのも道理だな…。

 

ショーン・ダーキン監督「アイアンクロー」3841本目

これも吹替で見ました。目が疲れなくていい…。

私が小さい頃に日本に来て試合をしてたみたいだけど、プロレス好きが周りにいなかったので、彼らのことは全然知りませんでした。この映画が公開された時期にWikipediaを見て、全員同じ病気でもなく、精神の問題だけでもなく、ただ「死」だけがケヴィン以外の兄弟に共通していて、なんなんだろうこれはと思いました。

この映画、勝手な印象をいうと、すごくトランプ的な世界だなと感じてしまいました。力、金、銃、家族、一致団結、とか。自分たちは純粋で、家族を愛して、命がけで身体を張っている。という姿には、見聞の広さやLGBTへの理解とかに価値を置く世界の趣味の良さとは真逆な、一種の美しさがある、と思います。朴訥で世間知らずな彼らがさいなまれているのを見ると胸が痛みます。

映画を見てわかったのは、それで悪運を避けられたというわけでもないだろうけど、ケヴィンだけが名字を変えたこととか。幼くして亡くなった長男以外は、プロレスの世界でヒールとして活躍するために、相当な肉体的な負荷に耐えて無理をしていたこととか。私のような筋肉のない者から見ると、全員がすごい筋肉の兄弟って何か恵まれた筋肉製造能力をもった遺伝子が共通してるんだろうなと思うけど、それはケガや病気にも強いってことではないし、精神的にも強いってことでもない。辛さを分かってもらえない、逃げられない、と思ってただ我慢しても、しきれるものではないのだ…。

ザック・エフロンってこんなにごつい人だっけ?と画像をググってみたら、昔は繊細な美少年っぽかったですね。アメリカ人なら誰でも、鍛えればここまで肉体改造ができるのか??

製作にBBCが入ってるしリリー・ジェームズが出てるのでUK映画かと思ったら、A24のアメリカ映画なんですよね。なんでBBCがお金を出したんだろう。そのつながりが、私にはとっても謎でした。

 

アリ・アスター監督「ボーはおそれている」3840本目

<結末というか考察を含みます>

忙しいなか、シリアスなドラマよりは感覚で見られそうなので、これを見てみました。途中までいつものように字幕で見てたけど、不可解過ぎてあたまが疲れてきたので、吹替に切り替え。(最近本をAudibleで聴いてる。目が疲れてるときはこっちのほうが楽)で、一度見たけど頭がまとまらないので、もう一度見る。

この映画はたぶん、統合失調症で少し知能が低い中年男の頭の中の物語だと思ってる。ホアキン・フェニックス、図体が大きくて精神年齢の低い白人男を演じさせたら世界一かも。ボーの世界観は、”だいたい何もかも怖い”。母へは絶対服従、恐怖の象徴だけど、それを彼は愛だと信じている。全然理解できてないので間違ってると思うけど、ボーは母親か父親を殺していて、その罪悪感から発症した精神疾患が彼をさいなんでいる、というオチかなと思って見てました。(cfマルホランド・ドライブ)

毒グモが発生していますよと聞けば、必ず自分が襲われると思う。
誰かが騒音で迷惑しているという話を聞くと、自分が犯人と疑われていると思う。
通り魔が町にいますよと聞けば、自分が刺されると思う。…誇大な被害者妄想、それがボーの世界観。かわいそうな人だ。(と言ってしまうと、なんだか笑える気がしてくる)非常に高圧的な保護者(母だったり祖父母だったり)に育てられるとそんな風に育つんじゃないかな…私も若干そういうところがあるから、そう思う。彼のスイッチが入ったのは、父の命日のために家に帰って母に会わなければならない、と認識したときだろう。彼の無意識は、なんとかして家に帰らずに済むよう、次々に無理難題や事故や事件を起こし続ける。まさに悪夢だ。翌朝は絶対に遅刻できない仕事だ、という日に、寝坊したり二度寝したりタクシーが来なかったり、高いところから落ちる夢を見たりする。

「薬を必ず水と一緒に飲まないと死ぬ」という強迫観念とか、「道路の黄色いブロックに沿って歩かないと死ぬ」みたいな子どもの”自分ルール”のレベルだ。誰かボーに「そのくらいでは死なねーよ!」と言ってあげて…。

その辺までは、わりと「わかるわかる」と思いながら見てたのだ。壮大な森の中の劇とか、エレインとの再会とか、ありえないことがどんどん大規模に展開されるので、だんだん自分が間違ってたんじゃないかと思ってしまうんだけど、壮大で大規模なのはボーの誇大妄想なんだろう。で、そこまでの妄想が広がるのは、最後まで明らかにはされないけど、墓石に若い頃の死を刻まれていた父というより、母を絞殺したあとでカウンセリングを受けたボー、だと考えると比較的おさまりがいい気もします。母は電話(ボーは遠くにいたので犯人ではないという言い訳)のすぐあとに死んでいた、けど、本当は生きていた、等々、行き当たりばったりの壮大な言い訳をつなぎ合わせたような世界です。まさにマルホランド・ドライブ。そして彼はボートでいくら逃げようとしても、何度も何度も浴槽の中や水上に戻っている。まだ死にたくない、と叫んだりもするけど、最後は身をゆだねて、あんなに逃げようとした母のもとへ(天国か地獄か)旅立つ…みたいな。怖いのはいつも歪んだ母性愛なのかな、この監督の作品って。

いままでに見たことのない不思議な世界を見せてくれたけど、もしこの推測が近いとしたら、マルホランド・ドライブやほかのアリ・アスター作品のほうが驚きや感動があったかなと思います。この次の作品を見たら、もう少しこの監督のことが理解できるかな…。

ボーはおそれている

ボーはおそれている

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イーライ・ロス監督「グリーン・インフェルノ」3839本目

U-NEXTで見ました。タランティーノ特集→イーライ・ロスのホラー映画レビュー→イーライ・ロス監督作品、と見てくると、彼らがどんな気持ちでホラーやスプラッターといったバイオレントな映画を作っているかがだいたいわかってきた気がします。

この映画でむやみやたらと繰り広げられる残虐な殺戮は、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」を見直したときに気づいた、暴力そのものへの興味関心に通じると思う。「憎んでいい人」、暴力のターゲットにしていい人は、彼らにとって、大好きなハリウッド映画の世界を血で染めたヒッピーの殺人者であり、先住民のことも良く知らずにいいことをやってるっぽい偽善者たち、なんだな。これ、社会派メッセージでも何でもなくて、監督の単純な好き嫌いだと思います。好きな人たちを殺戮する映画は作れない。

イーライ・ロスはタランティーノよりもっと肉体嗜虐への関心嗜好が強くて、こういう映画を作っちゃうわけだけど、「ホステル」もこの映画も、もはや何もかもがハリボテに見えて全然怖くも気持ち悪くも感じなかったです。多分、作ってる人たちには、泥まみれになって遊ぶ快感やぬいぐるみをバラすときの背徳的な気持ちを超える残虐性はないんじゃないかと思う。

一番気になるのは、令和の時代に(アメリカに令和は関係ないけど)チリの”先住民?”を裸にして体を真っ赤に塗って人食い族の演技をさせることだよな。なんとなく、タランティーノとイーライ・ロスが無邪気に、小さい頃に見たインディアンの映画がカッコよかったとか言ってはしゃいでる様子を想像してしまうので、あまり毒のない演出なんだろうとは思うけど、本人たちに悪気があるかどうかが問題ではないわけだから。。。

本気で震え上がるような映画なら全然見たくなかったので、最後まで見られる作品でよかったとは思います。

佛田洋 監督「スーパー戦闘 純烈ジャー 追い焚き御免」3838本目

こういう映画は、疲れてて何も考えたくないとき、何の期待もせずに見られます。ときどき、それでも腹が立つような作品に出会ってしまうこともあるけど、純烈という人たちは名前も面白いし歌もアクションも「ひどい!」と思うことはないので、余暇の娯楽としてはいいのかもしれません。続けて2本も見てますが、決してファンというわけではありません。

しかし…1本目の感想は、見事に男性のレビュアーの方々からスルーされ、「いいね」してくださったのは女性だけ。まぁそうだよな、これ男女置き換えてみると、だいぶ引いてしまいそうです。前期~後期高齢者の観客に向かって、40代くらいの、若者ではないけど現役感のある健康で美しい女性たちが「あなたと私、二人でひとつよ」などとささやいて抱きついてくるわけですもんね。(キャバクラってそういうところかな、と想像してみたり)”推し”、ファンダム、というものは全て疑似恋愛なのかもしれません。ちょっと変わった中年アイドルの映画だよ、という以上に、その辺がアイドルと同性の観客にはひっかかるのかもしれません。

この映画で最も心に残るのは、今は亡き八代亜紀の勇ましいデコトラドライバー姿ですかね。私がまだ小さかった頃からの大スターで、この映画の頃はこんなに元気そうだったのに、急激に悪化する病気であっという間に逝ってしまいました。演歌の世界って、特に気に入って聞いてたわけじゃないけど、ヒット曲は当然のように知っていて、長年自分の生活の一部だったので、たまに会うといつも元気で明るい親戚のおばちゃんが亡くなったような寂しさがあります。

みんな、健康に気をつけて、長生きしようね…。