<結末というか考察を含みます>
忙しいなか、シリアスなドラマよりは感覚で見られそうなので、これを見てみました。途中までいつものように字幕で見てたけど、不可解過ぎてあたまが疲れてきたので、吹替に切り替え。(最近本をAudibleで聴いてる。目が疲れてるときはこっちのほうが楽)で、一度見たけど頭がまとまらないので、もう一度見る。
この映画はたぶん、統合失調症で少し知能が低い中年男の頭の中の物語だと思ってる。ホアキン・フェニックス、図体が大きくて精神年齢の低い白人男を演じさせたら世界一かも。ボーの世界観は、”だいたい何もかも怖い”。母へは絶対服従、恐怖の象徴だけど、それを彼は愛だと信じている。全然理解できてないので間違ってると思うけど、ボーは母親か父親を殺していて、その罪悪感から発症した精神疾患が彼をさいなんでいる、というオチかなと思って見てました。(cfマルホランド・ドライブ)
毒グモが発生していますよと聞けば、必ず自分が襲われると思う。
誰かが騒音で迷惑しているという話を聞くと、自分が犯人と疑われていると思う。
通り魔が町にいますよと聞けば、自分が刺されると思う。…誇大な被害者妄想、それがボーの世界観。かわいそうな人だ。(と言ってしまうと、なんだか笑える気がしてくる)非常に高圧的な保護者(母だったり祖父母だったり)に育てられるとそんな風に育つんじゃないかな…私も若干そういうところがあるから、そう思う。彼のスイッチが入ったのは、父の命日のために家に帰って母に会わなければならない、と認識したときだろう。彼の無意識は、なんとかして家に帰らずに済むよう、次々に無理難題や事故や事件を起こし続ける。まさに悪夢だ。翌朝は絶対に遅刻できない仕事だ、という日に、寝坊したり二度寝したりタクシーが来なかったり、高いところから落ちる夢を見たりする。
「薬を必ず水と一緒に飲まないと死ぬ」という強迫観念とか、「道路の黄色いブロックに沿って歩かないと死ぬ」みたいな子どもの”自分ルール”のレベルだ。誰かボーに「そのくらいでは死なねーよ!」と言ってあげて…。
その辺までは、わりと「わかるわかる」と思いながら見てたのだ。壮大な森の中の劇とか、エレインとの再会とか、ありえないことがどんどん大規模に展開されるので、だんだん自分が間違ってたんじゃないかと思ってしまうんだけど、壮大で大規模なのはボーの誇大妄想なんだろう。で、そこまでの妄想が広がるのは、最後まで明らかにはされないけど、墓石に若い頃の死を刻まれていた父というより、母を絞殺したあとでカウンセリングを受けたボー、だと考えると比較的おさまりがいい気もします。母は電話(ボーは遠くにいたので犯人ではないという言い訳)のすぐあとに死んでいた、けど、本当は生きていた、等々、行き当たりばったりの壮大な言い訳をつなぎ合わせたような世界です。まさにマルホランド・ドライブ。そして彼はボートでいくら逃げようとしても、何度も何度も浴槽の中や水上に戻っている。まだ死にたくない、と叫んだりもするけど、最後は身をゆだねて、あんなに逃げようとした母のもとへ(天国か地獄か)旅立つ…みたいな。怖いのはいつも歪んだ母性愛なのかな、この監督の作品って。
いままでに見たことのない不思議な世界を見せてくれたけど、もしこの推測が近いとしたら、マルホランド・ドライブやほかのアリ・アスター作品のほうが驚きや感動があったかなと思います。この次の作品を見たら、もう少しこの監督のことが理解できるかな…。