この作品はKINENOTEではまだ「映画」と認められてないようだ。「エターナル・サンシャイン」からずっと注目してる映画界一の変人(失礼!)チャーリー・カウフマン監督作品なのに、感想を他の人たちとわかちあえないなんて!
主役の女の子が知的で健全な感じなので安心して見始めるんだけど、その彼氏が何考えてるかよくわからないし、母親役がトニ・コレットというのは相当やばい予感です(cf.「ヘレディタリー継承」)。第一声が「私たちの話をジェイクから聞いてたの?それなのに、よく来る気になったわね!」。
大きな学校のようなところで清掃を続ける用務員のおじさんの映像と、付き合い始めのちょっと知的なカップルが彼のおかしな家を目指す映像が、代わりばんこに出てきます。…が後半、その学校にカップルがたどり着いてからは、もうカウフマンの脳内映画の世界で、「マルコビッチの穴」にはじまり「脳内ニューヨーク」に続き、ああまた来た、という気持ちにしかなりません。
なんとなく、「これはフィクションだよ」といろんな側面から映画は訴え続けてくるし、お母さんの姿とか彼氏の小さい頃の写真とかの設定がブレブレなあたり、できの悪いフィクションのような、夢の中のような感じ。女の子はルーシーという名前なのに、に女の携帯の着信履歴に「ルーシーから」が続いてるのは”他の女の子の名前が思い浮かばなかった状態”っぽい。(のちにジェイクは彼をルチア、ルイーザとかエイミーと呼んだりもする)彼女はボーイフレンド、ジェイクの想像なのかな。彼の実家の設定もブレすぎてる。アイスクリームショップ「Tulsa Town」の派手な二人は冒頭でお掃除おじさんを笑った二人の女子学生だ。おとなしい方の店員の腕の発疹についてルーシーが話すとジェイクは「そんなの見てない」と言うんだけど、代金を払った彼の腕にも発疹がちらっと映った。…などなど。「エターナル・サンシャイン」でも、小さい頃の記憶が脳の中でおかしな形に変形されて出てきた。それと似てる。
老いた父がルーシーに「妻の古着の…あの、夜に着る服を出してやろう」と言う→年老いた妻がねまきを着てた情景がとつぜん登場→そのねまきを老父がルーシーに渡そうとする→若い母が出てきてそれを洗えという…という流れも面白い。これは誰かの頭の中の連想、Stream of consciousnessがそのまま語られてるんだな。ジェイクの老父はねまき=night gownという言葉が思い出せなくて、いろいろ連想してしまうんだけど、それは実はすでに老いている本当のジェイク(彼の名前はブレないので、こいつが当人なんだなと当たりが付く)自身がnight gownという言葉を思い出せない状況を意味しているのでは?彼が終わらせたいのは認知症の兆候が出ている自分なのではないのか?そういえば、認知症についてやたらと詳しいやりとりがありました。PGって言葉があったので調べてみたら、アルツハイマーにつながる老人斑を引き起こす歯周病菌のことだった。感染って言葉も出てたな。
そしてお掃除おじさんは最後に、学校の前に唯一停まっている(つまりジェイク&ルーシーの車はない)自分の車の中で、キーを助手席に置いたまま、意図的にエンジンをかけずに凍えている。窓の外は大雪。彼は冒頭からずっと何かを迷ってる。終えなければ、とうとう決意する日だ。と決めた直後、母の死の場面が浮かんでくるのは、「死」からの連想だ。…まるで、認知症の人のわかりにくい言動から、真の気持ちを読み取ってコミュニケーションを取ろうとしているような気持ちになってきます。
カウフマン自身の解説:
https://www.indiewire.com/2020/09/charlie-kaufman-explains-im-thinking-of-ending-things-1234584492/
映画の最後まで残っていたのは、インテリで絵が上手で詩とミュージカルを愛し、「こわれゆく女」について語るのが好きで、好きな子を家に連れて帰ることがとうとうできなかったPG型アルツハイマー認知症の用務員のおじさんでした。雪の夜に仕事を終えて帰る車の中で凍死していた彼の人生だけど、ずっと一人でわびしいものだった、哀れだった、というふうに受け取りたくないんだよなぁ。こんなに内面が豊かなのに。むしろ逆に、まるで孤独で哀れな風に見えた彼は、実はこんなに華々しいミュージカルの中で自分を見事に送った、って受け取りたい。「オール・ザット・ジャズ」みたいに。 結局のところ人生って他人に見せるためのものじゃなくて、自分だけのものなんだからね。