これは、胸に来るな・・・。戦後の混乱のなかを必死で生き抜いてきた人たち。世の中のモラルは、いつも後付けなのだ。一番大切なのは、生きること。それと、愛すること。その二つをまっとうした美しい生命たちの可憐な姿をいくつも見せてもらいました。
元次郎さんもメリーさんも、ミッキー安川も、大野一雄もその息子の大野慶人も、団鬼六もみんなもういない。でも多分、今もどこか、意外と近くに、こんな風にひたすら生きてる小さな人がたくさんいるんだろうな。
メリーさんは濱マイクの映画やドラマに出てきた、優雅で気位の高い年老いた娼婦のイメージだけど、大野一雄の「ラ・アルヘンチータ頌」だって同じくらい白塗りだ。時代感覚も美的感覚も久しく止まったままになってたけど、心の中はすごくロマンチックな少女のような人だったんじゃないだろうか。自分が思うとおりにしか生きられない不器用な人。自分の顏にヨーロッパのお人形の絵を描いて、お姫様の服を着てた。
映画の最後に、老人向けの施設にいるメリーさんの姿が映るんだけど、これがなんとも上品でお肌のきれいなおばあちゃんだ。若い頃はほんとにきれいだったんだろうなぁ。
それに、世間は冷たくても、伊勢佐木町には優しい人が何人もいた。彼女は今でいうホームレスだけど、彼女が寝るためのベンチを空けてあげていた人がいた。お茶を飲んだりクリーニングを出したり、髪を整えたりする場所があった。
一部の人が彼女を神格化した、と批判的に書いてるものも見たけど、あんなにちっちゃなおばあちゃんに何を負わせようとしてもムリだ。もし施設にいる彼女に、私が何かのボランティアとして出会ってたら、たぶん可愛いおばあちゃんだなぁと思って自分から仲良くしただろうな。手をつないで一緒にトイレに行ったり、小さい女の子どうしのようにお菓子を食べたり。
メリーさん以外の街の女性たちは、みんな散り散りにいろんな人になっていったんだろうか。ヤンバルクイナみたいにその場にいつづけたメリーさん。安全なところからセンチメンタリズムで彼女を懐かしむのも人間、他人なのに手をさしのべて面倒をみてしまうのも人間。元次郎さんの染みる歌を聴きながら、なんともいえず素敵な気持ちになる、魔法のような作品でした。