映画と人とわたし by エノキダケイコ

映画は時代の空気や、世代の感覚を伝え続ける、面白くて大切な文化だと思います。KINENOTEとこのブログに、見た映画の感想を記録しています。

セルジオ・レオーネ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」2696本目

<ネタバレあり>

この映画は上映まもなく見たはず。ジェニファー・コネリーが大きくなったらエリザベス・マクガバンになるのが納得いかなかった。怖くて悲しい映画だったなという記憶はあるけど、デニーロだしギャングだからぜったいシチリアマフィアだと思い込んでたら、ユダヤ移民の設定だった。監督は、今ならマカロニ・ウエスタンをたくさん撮ったイタリアの監督だとわかるけど、今になって「英語があまり話せないままだった」と聞くとびっくりするし、200分以上の大作だったことも忘れてた。でもすごく胸をうつ名作で、いつかまた見たいとずっと思ってました。

36年ぶりに見て、まるで禁酒法時代が自分の思い出だったみたいに甘く懐かしい気がしますねー。デニーロふうのホクロを顔に付けた少年、確かに画面の中にユダヤの帽子や長いひげの男が大勢出てる。

冒頭の回想場面、電話が鳴ってる間は回想というしるしなのかもしれないけど、時系列が交錯して、上映当時の私に理解できたかどうか。でも人の感情は当時でも理解できたはず。でも昔見たときには、マックスが清掃車に棒高跳びみたいに背中をそらして飛び込む映像があった…のでは?すごく強烈なイメージで記憶してるんだけど、レンタルDVDでは「車が通りすぎると彼はもういない」。あの背面跳び、私の思い込み?日本語でググっても英語でググっても、この情報はまったく見つからない、ということは記憶違いかな。そのときのバージョンには最後のヌードルズの笑みもなかったような気がしています。

一方この「完全版」では、最後のマックスは違う人物が演じてるのは明らかですね、体格が全然違う。それは監督が意図的にぼかしたい部分だからなんでしょうね。

ヌードルズの笑みは、あとから追加したので昔の場面として撮ったものを使いまわしたのかもしれない。ヌードルズもいい奴ではない、彼の手でマックスを死なせるのがみなら、思い通りにはしないのがヌードルズの最後の復讐で、それを果たしたという「ざまあみろ」の笑いなのかもしれません。本来の阿片窟にいた時点での気持ちの演出としても、「ほら見ろ、俺は抜けるって言い張ったのに、あんな大きな強盗なんかやるからこんなことになって俺だけ生き延びるんだ」と思った瞬間、かも。誰一人として聖人君子ではない、というメッセージがこの映画のベースにあるような気がしていて、ヌードルズだって町を出てから戻ってくるまでどこで何をしていたか、語られないけど名前を変えて商売をして、マックスといい勝負だったのかもしれません。彼にはそもそも、皆でやった犯罪で一人だけ有罪で投獄されたという孤独な日々がある。

楽曲は「アマポーラ」のほかに「ナイト・アンド・デイ」が繰り返しかかるほかに、昔を懐かしむ場面で「イエスタデイ」ってのはまるで日本のテレビドラマのセンスでちょっとがっかり。

それにしても、私の脳裏に焼き付いた「マックスの背面跳び」、いつか謎が解けるといいな…。

Once Upon a Time in America (字幕版)

Once Upon a Time in America (字幕版)

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